碁吉会25年間の駆け足歴史

囲碁観発表会の現場放送も兼ねて

                                              高野圭介

 囲碁観発表会
 昔の碁吉会と今とは在り方がずいぶん違ってきています。

(1999年姫路大会と2003年春、伊良子大会も
不思議にも表から抜けていますので追加下さい。)


 姫路大会のときのことです。当時「囲碁観発表会」というのをやってまして、
岐阜の有我和男さんが「私は勝っても負けても碁を打っておれば楽しいんです」
と言われたとき、どなたか「碁は勝たんと面白う無い」
又、他の方が「碁はどっちか勝つことになっている。負けても楽しいよ」
「あなたは負けて負けてしても嬉しいんか」そういう議論で延々と湧きに湧きました。

 その頃、碁会の在り方は全員総当たりで、当たった人と、出来るだけ一局ぐらいで・・・
という緩やかな不文律があった程度です。

 不眠不休の碁
有我和男さんと、今回病を得て欠席されている野坂由己夫さんが良い相棒で、
2泊3日二人で不眠不休で打ち続けて、40局ばかり打って、3日目の朝、
朝食の後、有我さんがドデンと横になって鼾をかけ出しました。



そんな時代でした。

 碁吉名物
碁吉会には名物男と名物女が居ました。

九州は小倉の橋本 洸さんと奈良は大和郡山市の中嶋美智子さんです。
橋本さんは元郵便局長さんで、とんでもない囲碁理論を身につけておられました。
それを誰彼構わず講釈するのです。そのための被害者は後を絶たず、

中嶋美智子さんはお医者さんの奥様で、京都の名門・琵琶湖カントリーに行ったとき、
1ホール20から40とメッチャ叩いて幾ら?と聞けば「五つ」と答え平気でした。



13路盤ペア碁で小谷さんと組んで、適の三三に、二二と打ち込んで困ったが、
そのまま這っていったと、小谷さんの述懐があります。

爛熟社会の様相
 世話人が北島さんから宮垣さんにバトンタッチして、六人リーグ、雛壇、
エイトマンなど精巧な組み合わせの大会となってきました。

ペア碁も13路盤、9路盤と息継ぐ暇ない爛熟社会の様相さえ見せてます。

次回の碁の在り方
次の30周年に向かっての碁の在り方

ルソーの「自然に返れ」とかにしたがって、
シンプル イズ ベスト とスクランブルにします。
但し、全体を東西に分けて、個人戦も考えます。