ちょっと死んでみてやろう



生か死かそれが問題だ。  オフィーリア ・・・シェークスピアから

                                         高野圭介


桂 枝雀が

「死んでみよう」


その昔、桂枝雀が「死んでみよう」と試みたことがあった。
そしてそのまま還らぬ人となったのだが、彼は”死ぬのがこわい病”で、
生き抜く一心であったと聞く。ところが、現実の哀しい知らせに
一般には彼を自殺!と決めつけ、何で??と言ったままその場は納まり、
すでに月日は流れている。

彼は物好きで、ちょっと死んでみて、甦って死と生の間の「幽界語り」の
高座をかける夢を見たいと思ったに相違ない。と、私は思っている。



今、私は生きている。いつの日か、おさらばするのだが、
死んで命があるものか、ほんとうに死んでしまう前に、
枝雀のように、ちょっと死んでみてみたいという人の
死ぬ体験談なんて、想像までに凄いじゃ無い。

 死んでみる、死に損ない、などいろいろあるが、
熊に襲われたら、死に真似しなさいと、昔から言い伝わっている。
確かに、本気で言われたものだ。 一つしか無い命。
大事に使ったら一生使える。私なら逃げたくなるが。

死海より這い出て貝の身のしずく   中川宋淵


ウオーターベッド

付きの棺桶


 間もなく、私は84歳を越える。61歳の還暦から二回り済んで、
次の一回りに入ろうとしているところなのだ。

 私は「死んでみよう」と試みたいとは思わないが、
逝きがけの駄賃で、死んでから焼き場に行くまで、
ウオーターベッド付きの棺桶の中で、気持ちよく過ごしたい。
死んでしまってから、何も分かるはずが無いのに、
と私の案を無視する向きもあるが。



 しかし、これもやってみなくては分からない。
キッと安らかに気持ち良いだろうなと想像している。
そして、焼き場でボーと火が付いた途端、ベッドの水がドッと溢れ出し、
ふと、我に返って・・・枝雀なら分かってくれるだろう。


死後は人任せ

宗教任せ


 ほんとうに死んだ後の弔うなどいろんな処置が面白い。
自分では何も出来ないから、人任せ、宗教任せである。
 それを司る宗教というものが命を担保に実権を握っている。

 ある棋友が逝った。無宗教の彼が死後、その夜洗礼を受けて、
立派なキリスト信者になり、天国に召された(筈だ)。

普段の生きざまとは格別縁の無かったあの世の世界で、
新入りのキリスト信者も同列で・・・。これはどの宗教にも共通では無いか。



 ふと、思った。そういう手を差し延べられない亡霊はどうすりゃ良いんだろう?
わんさと居るはずなのに。

 では、かく申す私はケセラセラ・・・あははっっh。


生か死か

それが問題だ。


碁でも、死んで打ってみる・・という場面がある。
ヨンでもヨミ切れず、成り行き任せというような無責任でもなく、
一手、手入れして打つようなことは死んでも嫌だという手法である。



今、天谷敬一さんと定期碁を打っている。その中の一局。
白は中の大石を156とツキヌケて、ようやくコウでシノイだところ。
上辺の白はちょっと死んでみてやろうと言うわけでは無いが、
まあ、生きているか?とタカを括っていたが・・・果たして・・・

TO BE OR NOT TO BE



 
白  高野圭介 vs  先  天谷敬一

黒157で、上辺の白をトリケだ。果たして白の生死はという局面である。

 
死んでしまったら、一完の終わり。 生きてしまってもまた、 おお、ワンラ(完了)
死んでるかも知れないが、生きてるかも知れない

最強の丈和なら殺すかも・・・シノギの坂田なら生きるかも。
死んでもいいし、生きても良い。観戦者は気楽だが、
当事者は両雄立たず。 今、無矛盾の公案に直面した。
英語には well-defined(矛盾なく取り決めがなされる)という単語もあります。

 
結果は・・・ 実戦は次の中の一つでした。・・・さて、正解は??

1.生きは無いが、殺すのはたいへん。

2.死んでいるようだけど、やっぱり生きている。

3.手順の妙で、生きは見えるが、コウに持ち込めば可とする。