どんなもんか

                               高野圭介

曰く、「不可解」 
明治36年(1903年)5月、16歳の旧制一高生・藤村操が華厳滝に
「人生不可解」として身を投じた。

その時、書き残した文言が、次の「巌頭之感」である。



巌 頭 之 感

                            藤村操


 悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。


 恋とはどんなもんか
人生とはどんなもんか??と
人生などの根本理念を追求するとき、
賢哲の明智をしても不可解と断じた。
 
藤村操の名前は東郷元帥や二宮金治郎らと共に
明治・大正・昭和と語り継がれてきた。
世界のグローバル化の進んだ平成ともなれば、ちと違うようようだが。

物事の本質を問う、それを平たく、「いったい、どんなもんだろう」
更に
「どんなもんか」を検証したい。



思うに、
「恋」は人生の一大事と心得るが、
「心のうずくような恋とはどんなもんか」と問えば、いよいよのところ、
本人しか分からない。分かった本人も説明も付けない。

 碁とはどんなもんか
碁の世界で、「碁とはどんなもんか」と自問し、追求し続けあるとき
「あ、これか!!」と腹に嵌まったとき、一つの節目を付けて上達する。

そのように教えられた。



折しも
「地と模様を超えるもの」趙治勲の囲碁哲学といも言うべき卓論に触れて、
眼からウロコに恍惚となっている。

かと言っても、上達とは縁遠くなってからではあるが。

運動とはどんなものか  
元々運動神経のちょっとタガが外れている私が、
加齢と共に、動体視力の更なる衰えも加わって、如何ともなしえず、
どうしようも無い剣が峰に立って、
迷惑を掛けてままいろんなスポーツに参加している。

その動きの中で、本質を突いた問題を自分で考えた。

絶対自己責任でやれると断言出来るのは、
テニスなら、サービスだけである。
ゴルフなら、ティーショットだけである。
ゲートボールなら第一ゲートだけだ。

こうしてみると、最初の第一投が自己責任の範囲内でのプレーで、
競技に当たっては、いさいさ準備怠らず、いたく心せねばならない。



この秋、新しく卓球に入門した。table tennis は矢張りtennis の親戚である。
ライジングボールを打つ卓球からテニスの何ものかが見えてきた。
特にサービス・リターンにに新機軸を見出した。

水泳は、細かい技術はさておいても、呼吸が問題である。
一番自然体で泳げるのはクロールとバック。
最近では懇切丁寧な指導があるから、誰でも取っつける。
後は体力勝負・・・。これはほどほどで良い。


人生、時間は命
加齢とは酷なものである。
生涯の趣味の取り組みは早ければ早いほど良い。
肉体の動きもさることながら、馴れの問題がある。

私自身、運転免許証も返納し、行動半径は刻むように狭まってくる。
いきおい、交流関係も同様であり、
そもそも交流の相棒自体が減っても、増えることは珍しい。
ここにきて「時間は命」と頷くのみ。



少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲

朱熹(朱子)「偶成詩」