碁を創るちから

最近クリアーに分かってきたことです。

                  高野圭介

知識と智恵
碁の上手下手はいよいよのところ知識ではない。智恵であると。

つまり、受け容れてきた知識はベースになるデーターなるもので、
ある程度の絶対量は無くては碁の構成が出来ない。

しかし、知識自体静的なデーターに過ぎないものだ。


量が質を

規定する




弁証法における「量は質を規定する」という
量的変化から質的変化への移行の法則がある。
少々の量が増えても質は滅多に変わらないが、
ある一定の量を超えると、劇的な質の転換が起きるというのである。

例えば、史的弁証法でいう質的変化を革命という。

 碁を創ろう
知識とは別の智恵が働くとき、データーを駆使してリードしながら碁を創ろうとする。
誰しも創ろうとしなければ打てないのだが、
全局的な観点からより高度な碁の創作が出来るときの歓びは例えようも無い。



量質の違い
置碁の欠点は黒は白の操り人形の如くに、白の言われたままに動く。
否、量質の違いから動かされる。
形こそ精錬されて美しくなるが、ええ加減というほどのよさが定着し、
むしろ操られ易い体質という質の碁に馴染んでしまう虞がある。

気概の勝負 
そこへ行くと、互先の碁は初めから終始、一対一という剣が峰に立っている。

独自の路を切り開くことによって、均衡を破って
百尺竿灯歩を進める気概が勝負を決するというものでしょう。


自分・私




「自分以外のものになるな」

                  山崎町教育長・故 尾崎正一 提唱 (抄)

次郎物語で知られる下村湖人先生が
終始「自分以外のものになるな」ということであったという。
これは「自分自身は何か」ということであって、考えることで、
いっそう「私」となり、「私」たらんとして、いっそう考えるということでありましょう。

真似をする、繰り返すなど所謂「俗」は考えが鈍り、「私」が弱まります。
「脱俗」「毉俗」という警語は囲碁にも通じて心すべきこと、常に戒めたいと存じます。


智恵が

碁を創る


囲碁はヨンで字の如く、石を囲むであって、地を囲むのではない。

石を囲んで、攻めるとき、自ずと相手を囲むのがリードした最善の打ち方である。
そのためには相手より中に居ないと囲めない。

但し、囲まれても平気なのは活きてる石なので、厚く打つのが一番である。
この智恵が碁を創っていくものなのでしょう。