地獄と極楽



                                       高野圭介
 
あの世って
「最近、凄く物騒な世相になってきたな」



「主犯A少年とB.Cの二人に切られた上村遼太君・・・
イスラム国の後藤さん以来、日本にも伝染したのか、
首を切る!という怖いのが次々と。」

「あの世に行ったら、このような怖いのは居ないから、
ゆっくりお休み下さい・・・と言っているが、ホントね。」

「あの世って、極楽かなぁ」

そこで、地獄・極楽談義となった。

お寺の紙芝居


私が子どもの頃、近くの妙源寺というお寺の日曜学校で、
地獄極楽の紙芝居をしていて、悪いことを言ったりしたら、
地獄へ行って舌を抜かれるぞ、と脅かされたものだ。

そういえば、最近では地獄極楽の話は全然聞かなくなったな。
もちろん、閻魔さんというのもどこかへ行ってしまった。

仏教とキリスト 


ダンテ・神曲の地獄・煉獄・天国も中世の思想の映しのようなもので
、私には分からないが、今のキリスト社会でも死後の世界に
神曲の再来のようなことが言われているのだろうか?

 因みに、天国と地獄の境にある煉獄は
仏教には閻魔さんの裁きの場のことか。

 霊長類
どうも地獄極楽の浄土思想は、
人間は肉体と霊魂よりなっているという観念から来ているようだ。

 人間の霊魂は霊長類だけのもので、死を悼むようなことは
一般の動物にはない。そのように言われてきた。

 今では象の世界でも、猿の群れでも死者を追悼する心情があると聞く。
一般の動物でも同様のことが言えるだろう。



一口に言って、いよいよ人間というヒトはサルもワニもあまり変わらない。
その感じが庶民の間にも根付いてきたのでは無いか。

その霊長類のことも今ではとんと聞かない。



現世利益から浄土思想へ

庶民における地獄・極楽の成立過程を見るに、
奈良時代から平安時代初期における日本仏教の世界観は、
現代のそれとは大きく異なっていた。

10世紀前半までの仏教においては、驚くほど生者の現世利益に重点があった。

10世紀の後半以降現代の仏教に見られるような地獄・極楽を含む
個人の死後世界、その中で輪廻・転生するといった浄土思想などが現われ、
朝廷、貴族をはじめ庶民にまで広まっていった。

 その新しい仏教の担い手になったものが、浄土思想であった。 

一般論としての文献より集約

 
退屈しない地獄

 
 面白いことに、そうとは思っていても、死後もし、地獄とやらがあったら、
行きたくないと頭を掠めると言うのだから、いやはやである。

 一方、極楽なんぞ歌や花に囲まれて永遠に生きるなんて退屈だ。
地獄へ行ったら忙しゅうて退屈しないで楽しいぞと言う人が現れた。

ヒト様々である。