賭け碁

                                                            高野圭介

 
 相撲協会
相撲協会が今、野球賭博のことで、大揺れに揺れている。

勝負の競技者・アスリ−トが賭け事で問題がある、というのは
八百長に関係したということと、思っていた。

ところが、今回の問題は、
野球という全く別のジャンルでの戦いに関しての闇のトトカルチョであった。 

賭けの常習犯 
私は昔、肺を患って、1ヶ年間隔離病棟で過ごしたことがある。
時間を見て暇なとき碁を打ったが、流行ったのが「相撲の賭け」だった。

1回\100.程度の賭けだったが、15日間経てば、今度は野球が始まる。
野球がないときは、手持ちぶさとなる。
今度、あの建物の角から出てくるのは男か女か?が賭けの対象となってきた。

これは賭け事の常習犯となってきている証拠であった。
賭け事にはこういった傾向が付きまとっていた。 

 自分に賭ける
そもそも賭ける,というのは自分に対してか、他人に対してかで、違ってくる。

対象を自分自身に対したとき、自分に必死に勝て!と、
「強い意志」とか、「信念的」「背水の陣」などとなる。
とても良いことだ。
 
八百長 
一方、他人から「お前に賭けているから、頑張れ!」は良いのだが、
かくかくの話だから「巧く負けてくれ!」となると、問題だ。

つまり、勝つために心身を賭して戦う、と言うのがアスリートの宿命ならば、
「負ける」ことに腐心せよと言うのである。

これが八百長の実態だが、
少々の巧手でも、上手に負ける!ことの難しいこと。
力士自身が「賭け相撲」=「八百長相撲」に関わったときは分からんように巧く負ける。
ただ、力を抜いて負けるとき、大怪我をすることがあるそうな。分からぬものでもない。 

囲碁の故事 
囲碁の故事にある話。

「碁は勝とうとするものかと思ったら、
お前らの碁は負けよう負けようと打っている。
自分の死にかかっている石をほったらかして、
向こうの殺せない石を一生懸命で攻めているのがそれだ。」

多聞丸(11才・後の楠正行)

 アマの碁
ただこれは、八百長とはちと違う。

碁の上手の域を知らない人達は、自ずと「負けよう」と腐心しているのである。
アマは巧く負ける、なんて芸当は先ず、出来ないとしたものだ。

プロと違って、へた過ぎて、どうもならんのである。
だから、誰も八百長とは言わない。

相撲界の賭け事 
今回の相撲界の賭け事は、野球という媒体で丁半博打をした。
それなら、昔の森の石松時代の、賽子博打と同質のものと思えないか。

とはいえ、公の宝くじなら許される,と言うのも変な話だが。

八百長で、自分の負けに腐心するのと、賽子博打とはどちらが罪が重いか?。

さあてね。