洲本の妙好人

師走も半ば、15日に淡路の洲本城(標高133mate)に登った。
つずら折れとは名ばかりの133meterの急坂を40分かけて登り切ったとき、
因幡の源左か浅原才市かとも思える親切きわまるお方に出逢ったのだ。

                                          高野圭介




 
 
     天然の要塞・洲本城からの遠景          大浜海岸は波は低かったが、風は強かった。


聞けば、この急峻の下りは手すりも無く、とても危険。
車道を歩くのは迂回路になるので、一時間半はかかるとのこと。
その方は石材やさんで洲本城で石垣の作業中なのに、
手を止めて、下まで車で送っていただいたのである。

その方の弁もただ者では無い。

「あの高い山にお二人で登ってこられた高野様ご夫婦のお姿を拝見した瞬間に
「正にご自身の命を大切に生きてこられたお二人だ」と感じました。
ですから、私もお二人を大切にしてさしあげたい、
そのことで私自身も私の命を大切にできるのだとの思いを持ったしだいです。」

 


その夜、ホテルにお越しになって、いろんなことが分かってきました。
その方は、ふるさと淡路島を愛する岡崎一郎こと、洲本の妙好人岡崎一郎でした。



思い返せば終戦直後の頃、
私の母が呉服の商ないをしていたとき、夕食時にこんな話をした。

 「今日な、あの人が来てセルを見てもらいよったんや。他のを取ろう思うて立って後ろ向いたら、
今のセルがスルスルと動いているやないか。{おかしいな}と思うのと
{悪いもん見てしもた}と思うのと一緒で身動きならず困ってしもたんや。

やがて動きが止まり、振り返ったときは、そのセルはあらへんし、
おばさんも何事もなかったように平然としてはるし、
こっちが恥ずかしゅうてなあ。あの人、今なにしてるやろな」

その母は腹立てている人を見れば
「何を怒らんならんことがあるんだろかな。気の毒な人や」というのが口癖だった。

 その母もこの春逝ってしまった。
 きっと、母も妙好人の仲間入りをしていたのではなかったかと思うようになってきた。

                                       高野圭介 1994年記


私はふと気がつきました。

あれほど腰痛で難儀して、平地100meterの歩行が四苦八苦であったのに、僅か2回の治療で、
気がついたら、洲本城へ歩いて登っていた。
そして、その後も何ら痛むことも無く、温泉で身体を休めていたのである。

昨今は街のノーベル賞に救われ、洲本の妙好人に扶けられ、青信号の道を歩んでいる。
嬉しい限りだ。

                                      高野圭介