一豊の名馬はナンボのもんか



                                    高野圭介

黄金10枚
大河ドラマ・功名が辻では
千代が一豊に大枚黄金10枚をはたいて、
名馬を買い求める場面が出てくる。

 そもそも室町時代から牛馬の競りが木之本牛馬市場で立っていた。
どうもそこで買い求めたという話のようだが、いったい、
その黄金10枚とは今でなら幾らぐらいの金子であったのだろうという話になった。

今の価格?
20万、50万、100万、200万、500万、1000万、2000万と、
てんでバラバラの価格が想定されたが。
はて、今ではおおよそ幾らぐらいだろうか?

1文は幾ら  
まず、1文は幾らぐらいであったか、から検証する。

「文無し」は無一文で、何もないこと。
「1文惜しみの100失い」の1文。「ぴた一文」の表現もある。
「3文判」「3文文士」など、安っぽいの形容詞。
「2足3文」は草鞋2足で3文。
 この1文は今の10〜20円程度といわれている。
 つまり、1足が20〜30円ということで、最も安い商品の代名詞だったようだ。

 1両は幾ら
 さて、江戸時代では4000文(6000文説もある)が1両で、はぼ米一石に相当し、
基本的には両(金貨)・分=貫(銀貨)・朱=文(銭貨)の3貨・4進法であった。

したがって、分かり易く換算していくと、
1両は40000〜80000円。
10両は40〜80万円ぐらいの価値。
 千両箱は40000000〜80000000円。つまり、4千万〜8千万円。

相場の変動
江戸の初期から末期に掛けては、相場の上下の中、
悪貨は良貨を駆逐するという法則に則り、逐一価値の低減が見られるという。

 色々と調べてみると、
一両の価値は、江戸初期:10万円〜12万円。江戸中期:6万円〜10万円。
江戸後期:2千円〜1万円程度だったと、紹介されている。

慶長小判
ここに金貨の歴史を探ってみると、
有名なのは武田の甲州金があったが領内で流用していた程度で
、全国的に戦国武将は競って金を掘り出していた。
その殆どの形状は「小袋に入れた砂金」のままで、
小判、金貨の形状では余り見られなかったようだ。

 家康が金貨・銀貨・銭貨(銅)の三種類の貨幣からなる貨幣制度を決めて、
一両金貨としては初めて1601年鋳造の慶長小判が世に出たようである。

流通砂金
したがって、信長時代、一豊の名馬は「黄金10枚」というが、
それは世に言う一両金貨ではなく、いったい何の黄金であったのか?

劇中に、お濃が千代に小袋入りの砂金を与えるシーンがあったが、
おそらく、そのような砂金小袋のままで流通していたように思われる。

 この点、金貨に対する時代考証のままでは説明が要るので、
分かり易い表現が取られたと判断したい。

黄金の価格
ここで、時代を江戸中期から戦国時代に遡らせて、
緩慢なインフレと、仮定したとき、
黄金の価格は江戸初期の何倍かあったはずだ。

さて、往時価値は、土地、労働力は安く、
砂糖、金平糖など食料品は高かったようだ。

一豊の名馬
仮に、普通の馬を200万円と評価してみても、
一豊の名馬というと、今のキャデラックか、戦闘用の重戦車級の価格に相当し、
その何倍か増しの法外な価格であったろうとしか言えないが。

しかし、そのような莫大な金子を果たして一個人が入手し、
保管できたか、疑わしい点もある。