肉キラの骨キラ 「人生は一局の碁なり」 −囲碁に見るビジネス戦略− 高野圭介 これは谷岡一郎・大阪商大学長からの、お呼びかけを戴いている公開シンポジウムの表題であるが、 確かに、碁の玄々の味、奥深さは恰も人生と、共感される方は多いと思う。 |
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人生は一過性 | しかし 「一局の碁が終わった」と言えば、「人生が終わった」と重ねて「碁と人生は同じ」となるか? どこで終わりとするかは問題であるが、 人生には余生というものがある。碁には蛇足ぐらいかな。 碁は負ければ再度挑戦できるが人生のチャンスはまず来ない。 再度の挑戦だが、碁は工夫して修正しつつ実践できるが、 人生は一過性だけに、再チャレンジの機会はとても狭い。 |
戦ったところだけが地 | ところで、 碁も人生も、どこかで明暗を分かつターニング・ポイントがあるものなのだが、 それは、振り返って初めて分かるという問題にぶちあたる。 ネギ節のような変わり目の無い碁。それはほとんど戦わないで、囲い合い、 それも、一方的に、自分だけ囲う碁が偶にある。 「囲うたところは地にならないで、戦ったところだけが地になる」 |
打ち過ぎで負ける | あるいは,頭から湯気が出るほど、終始戦いに明け暮れる碁もあるにはある。 「アマは打ち過ぎて負けるが、プロは打ち惜しんで負ける」とも言われる。 また「打ち足らず負けるより、打ち過ぎで負ける方がよい」とも。 |
トルはトラレルの裏返し | 沈香も焚かず屁も放かずという、ずるずる 「囲い派」は戦って、石が討ち取られるのを怖れてのこと。 「戦い派」は取られても、取ったときの快感がたまらない。 戦うとは「石を取りに行く」ということである。囲んでトルということである。 ところが、トルはトラレルの裏返しで、危険が伴うことが多い。 |
碁の新天地 | 思うに,保全的人生観の安全第一はともかくも、 少なくとも碁では、「攻めは最高の守り」を実践すべく、用意万端にして、トラレルことを怖れず、 攻撃的に「肉を切らせて、骨を切る」という「肉キラの骨キラ」に変身していけば、 ・・・そこが難かしいのだが・・・碁の活き活きした新天地が開けると思う。 |