碁を支配する思想

                                  高野圭介

自分流
碁を皆んなでつついていた。

「この手は、石が逆で、こうだと思うよ。」
衆議一決、というか、皆が賛同して、
「それがいい、それが良い○」となったとき、
「なるほど、分かりました。はい。でも、私は元の方で打ちます。」

頑固を絵に描いたようなこの人。
なかなか、「ウン」とは言わない。
分かっているんだけど、
「それは他人の碁。自分のは自分流。

囲碁観
碁吉会の「碁吉憲章」にあります。
我々はそれぞれの囲碁観を持っており、それは侵されない」と。

この囲碁観こそ、思想であり、その人の生きざまのバックボーンであり、
いたずらに変えたり出来ない。

その人の碁
碁を打っていて、
「何と地に辛い碁だなぁ」
「スケールの大きい碁で、驚いた」
「手筋の鮮やかな碁だけれど、全体を見ていないのじゃないか」
など感じることがあります。でも、それが
その人の碁なんです。

 だから、その人自身なのであって、
辻褄が合う・墨守する・大義名分・変節する・意地を通すなどが命なんです。

思想が支配
主義・主張を変えるということは、前のを「棄てる」ことなので、
それも、機が熟し、昆虫が脱皮するように、

何かのサプライズを機縁として、以前のを棄て去って、
中から外から、あるいは、囲ったり戦ったり、主眼を変えながら、

グレードアップしていくのではないかと思います。
一局の碁は思想が支配する、と私は信じています。

ずれ と ゆれ
先日、良寛さんの国宝級の墨跡について、お話を聞きました。
「ずれ と ゆれ」「弱さの中に強さがある」などなど・・・

 もし、神様が碁を打ったら、われわれの思想にない、平素知らない石の筋・
「弱そうに見えて・・・」「ずれたり、ゆれたり・・・」なのかも知れません。