(07) 南に向かって北斗を看る 高野圭介 |
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無私 | 「無私になること」「己を無くしたとき、すべてが私」というのが禅である。 公案とは「人間だけにある脳、動物の脳、そのバランスををとれ。 つまり、先入観を捨てよ。 丁度ラッキョウの皮を剥がすように」と言うことだ。 『碧巌集』第八十則「趙州孩子六識」より 海清寺僧堂大衆禅家師家 大阪外国語大学講師 平 出 精 択 |
赤子の六識 | ある僧が趙州に「生まれたての孩子は六識はあるか」と訊いた。 意識の存在を問うたのである。 六識とは眼耳鼻舌身と意である。 つまり、視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚と意識である。 意識には表層意識と深層意識がある。 曰く「茫々たる急水に毬子を打つ」「念々不停流」と。 |
人生一呼吸 | 「人の命は幾ばくなりや」 「ひと呼吸なり」 一つ一つの呼吸があって、それが繋がって生きている。 一大事とは今日ただ今の心なり。 この「こころ」は「ころころ」から来ているのだが。 |
連続・不連続 | 「薪があって、燃えて、灰になる」というとき、恰も「非生死」というように、 生は生、死は死、それぞれが独立して認識すべきで、 燃えて、生きて、という精一杯の行為は連続しているが、連続していない。 「生くるときは生くるがよろしく、死ぬるときは死ぬるがよろしく」 良寛 |
無喜・無憂 | 心随万境転、転処実能幽。流認得性無喜亦無憂 (心は万境に随って転ず、転ずる処実に能く幽なり。 流に性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し) 注、字眼は転。 |
不立文字 | 「不立文字」とは次の三つ。 1, 言葉では本当は説明できない。近づけるだけである。 これは西洋の「始めに言葉ありき・・云々」と、 予言者 の言葉を正しいというだけでは理解しがたいと思う。 2, 独創的な言葉はどうして来るか。 3, 文字にこだわらない。 |
『無門関』 | 「南に向かって北斗を看る 風をたたいて音がしない」 『無門関』第六則「教解別伝」より |