ー碁吉会の人たちー 高野圭介 |
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1988年、イギリスを巡る一人旅をした。 ロンドンからヨーク、エジンバラ、インバネス、スカイエ島、 グラスゴー、ウインダーミア、ストラットフォード・アプオン・エイボンと 一ヶ月近く何の予定もない汽車のきまぐれ旅行だった。 一周してロンドンに帰ってからいろいろ難渋したのに何か楽しくて仕方がない。 つたない英語を頼りのほんの一人ぽっちの旅だったのに、全然淋しくもない。 何だったのか私はいぶかった。 「あ、待てよ、私は大勢の人に会っては別れた。 そのいつも会うた人の眼の中にいる自分といつも二人連れだったのだ。 間違いない。私はもう一人の私といつも二人でいたのだ」 |
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同行二人 こんな私の述懐に棋友の合いの手が入った。 「凄い体験ですね。西国八十八ヶ所めぐりという信心詣りがあるでしょう。 これは〈同行二人〉といって弘法大師と私と二人連れ添うて、ということなんです」 |
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これが碁吉会! (そういえば、亡き母が〈私はいつも阿弥陀さんと一緒です〉 と口癖のように言っていた) それが将来、一人一人お会いする棋友の中に私が生きていくことになり、 その人たちが群れをなしていった。 それが「碁吉会」であると、確信している。 |
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碁吉会は何の制約もない。 いつも思うのだが、右向いても左向いても碁の友達ばかりだ。 眼と眼があったとき、その友の眼の中に私がいて、私に微笑みかけてくる。 みんながみんなだ。誰もが棋友だ。誰もが相手の存在を認め、 相手の中の自分を自覚する。 弱いも強いも無い。誰とでも碁が打てて、心を通わすことになる。 確かに負けるより勝った方が気持ちはよい。 かといって、勝たねばならないなら碁は打てない。 |
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二人で良い碁を創る かの友人はさらに曰く 「同行二人と言っても、この二人は対抗意識を持ってはダメなんですよ。 多少の角逐があっても仲よくして、頂上を争わないことが肝要で、碁を打つ二人が 勝負もさることながら、二人で良い碁を創るという仲で打って欲しいものだね」と。 |
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我々はそれぞれ囲碁観を持っており、それは侵されない ー碁吉憲章よりー 碁吉会に浸っていたら素晴らしいことでも不感症になって、 その凄さが当たり前となってくる。 それがいい。 ありのままだからいい。 初めて参加して、碁吉会の雰囲気に触れたら、禁煙・椅子席は当然として、 勝負を争う碁会だのに笑顔があり、笑いがあり、 爽やかな馥郁とした空気が漂うているのを知る。 |
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