俳句と碁の公案
高野圭介(虚石) |
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公案とは |
「禅問答」の禅の祖師たちによる 具体的な行為や言動を「公案」と呼びます。 「公案」は禅宗で、参禅者に考える対象や 手がかりにさせるために示すもので、 禅の精神を究明するための思考。つまり、 眼前の現象から本質を探ることであります。 実際に、禅問答の解釈には正解はありません。 自分がどう感じたかが重要になります。 禅問答は理解が難しい問答ですが、 具体的にはどのように解釈すればいいのでしょうか。 |
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禅の公案 |
禅の公案 かって、白隠禅師開山の名刹:三島の龍澤寺に蜜多窟・中川宋淵老師を訪ね、 一ヶ月、座禅を組んで警策に叩かれたことがあります。 禅と言えば「禅問答」。「禅問答」は 禅宗の僧が悟りを開くために行う問答のことです。 しかし、その中身は、かなり非論理的であり、抽象的なものが多く、 「意味がわからない」という意味で、 「あなたの言っていることは禅問答のようだ」というような 使われ方をするのが一般的となっています。 |
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禅問答:風になびく旗 風になびく旗を見ながら、ふたりの僧が言い争っていました。 ひとりの僧が「旗が動いている」と言うと、 もうひとりは「違う。風が動いている」と言います。 そこを通りかかった三人目の僧は 「あなたたちの心が揺れ動いているのだ」と言います。 これは哲学的ですが、いずれの主張も それぞれの見方として尊重すべきものです。 風になびく旗とは、物事は見方を変えることで、 思わぬ示唆が得られることを示しています。 禅問答:公案:風 弟子「風の本質は変わらず、どこにでも風は行き渡るというのに、 なぜあなたは扇を使うのですか?」 道吾禅師「お前は風の本質が変わらないことを知っているが、 風が行き渡らないことはないという言葉の 本当の意味がわからないのか?」 弟子「それはどういうことですか? 」 道吾禅師「……。」(そう問いかけても、道吾禅師は扇を扱うばかり) |
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禅の修業 私の龍澤寺の参禅はひたすら座る。庭の掃除から、 一汁一椀の食事。そして、般若心経の素読諳誦ででした。 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経 これは最後の部分ですが、それは「それ行けそれ行け・・」とか。 つまり、「怠らずに、しっかりやれ!」と解したものですが、 しかし、 私ごとき初心の似せ坊主には禅問答・公案などは門外漢でした。 参禅記念にと、眼前で「無門關」と老師の墨蹟を戴いて、 今も私の書斎に掲げてあります。 宗淵老師の俳句は美しい大きな句です。 たらちねの生まれぬ前の月明かり 宗淵 |
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囲碁の公案 | 囲碁の歩み 私は14歳の終戦の日から、七十五年間、碁と共に歩んできました。 1967年に守拙会に立ち上げて、 1973年、関西棋院宍粟支部長就任以来 1979年に風鈴会、1990年に碁吉会と続き、 今なお継続して鋭意囲碁活動に挺身しています。 その間、1996年、ねんりんぴっく島根大会で全国優勝。 2019年、中国全国囲碁大会:紹興名士教授杯囲碁賽では 最年長で準優勝という栄冠に浴しました。 囲碁関係にも筆を執りました。 『宍粟の碁』『醍醐味』『碁スケッチ』『おもしろ詰碁』に続いて、 今では『チョイスAI定石300』『花びら』の執筆中です。 |
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囲碁哲学 かって、岡山の関西棋院:小山靖夫プロ九段から聞きました。 「碁とは何か? 碁とはどういうものか? そういった碁の本質を何か把握したとき、 あなたの碁は一皮剥ける。」と。 私は感銘し、その後、「碁とは何か」を追求し続けてきました。 その一つの集大成として、 「碁のテーゼを自分のものにして盤に向かえる人は 自信に充ち、しあわせである」として、 私の囲碁哲学「そもさん囲碁・・・碁を考える」を 碁吉会オームページに記載しました。 http://gokichikai.jp/gophylothofy-kono.html |
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囲碁の公案 立場上、囲碁の指導に当たることが多いのですが、 皆様に囲碁公案というか、サゼッションを示します。 高段者には「全局のバランスを」「地合ではいつも負けていない」 また「模様は一貫せよ」などと、碁の公案めいた暗示です。 基礎がまだ確かでない普通の棋力の方には「形を整えて、筋よく打つ」 「石は中でツナグ」などと、基本に忠実に・・・などの指導です。 初心者には「まあ、いろいろやって下さい」 「その内に分かってくるでしょう」と。 つまり言いようがないということです。 2017年、AIの出現から碁自体が変わってきました。 でも、従来の「囲碁十訣」は揺るぎもしないが、 昨今、「AI囲碁十訣」を提唱しました。 |
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