囲碁の別称 高野圭介 |
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数々の別称 | 碁は「手談」とか「河洛」「方円」「坐隠」「烏鷺の戦い」 「敲玉」「黒白」とか、いろんな別名を持っている。 その由来・形態によるものであろう。また「爛柯」「橘中の楽」などの 謂れにはいわく付きの仙人・童子が登場する。 |
坐隠 | 居ながらにして隠遁するの意。つまり囲碁三昧の境である。 「囲碁は遊戯中の王である。全ての遊戯は自分を忘れて喧噪になるが、 碁は沈思を重んじる」として、王担之は「坐隠」と言った。 |
方円 | 「方円」は石(碁石)の円きこと、天の如く、 盤(碁盤)の方なること地の如し、とか。 これにちなんで、明治初年に村瀬秀甫準名人は 囲碁結社を創始して「方円社」と称した。 |
河洛 | 「河洛の図・九宮之位置」「河洛」という別名に注目したい。 この名の由来は、古棋書『河図洛書』で、 戦争の机上作戦の道具として使われたものと言えまいか。 これには「魔法陣の数字」が書き込まれ、数を図像化・配列したもので、 戦争の陣形を型取ったと思われ、図示するのに黒丸白丸を 用いた所から碁に通じていると考えられている。 因みに安井仙知は打碁集『河洛余数』を上梓した。 |
烏鷺 | 「烏鷺の戦い」は「烏城・鷺城」と言うが如し。「黒・白」と同義。 元々中華は東夷・北狄・西夷・南蛮に囲まれ、自ら中華と治まっていたが、 戦うばかりが能では無い。 この外敵と心を通じ合うのに囲碁が大いに役立ったと思われる。 |
敲玉 | 「敲玉」の敲は推敲の敲。玉は玉石の玉。 つまり玉を敲く、石を推敲する。打碁。 明治30年(1897)に石谷広策が本因坊秀策の碁譜 500局を編し、 『敲玉余韻』と題して上梓した。 又、明治40年(1907)に雁金準一が「敲玉会」を創立した。 私が開設した囲碁道場・敲玉に、掲げた書 |
手談 | 「手談」は晋(AD 3~ 5世紀)の支公が呼んだ。 その頃、清談(観念的な哲学談義)が一世を風靡した。 碁は「手でやる清談」であった。 英語で「Hand Talk」と訳され、言葉の通じない碁友の 「一局打てば百年の知己」となる囲碁の最高の別称であろう。 |
爛柯 | 「爛柯」は「斧の柄が朽ちる」という意味だ。 春秋時代というからBC 500年頃、王質という樵夫が住んでいた。 ある日、石室山奥深く、木を伐りに入っていった。 すると、木陰で四人の童子が碁を打っていた。面白そうなので見ていると、 童子の一人が「美味しいよ。食べる」と言って、 棗の実のようなものを呉れたので、食べた。 不思議にもお腹も空かないし、時間の経つのを忘れて見ていたが、 童子が「どうして行かないの」と言うので、 我に返った王質はふと立ち上がろうとすると、 斧の柄が朽ちていた。山から里に帰ってくると、どうだろう。 王質から七代目の末裔が住んでいた、と言うのだ。 この話は少しづつ変わっていろいろ伝えられている。 面白いのはいったん里に帰った王質が再び山に入り、道を得た。 つまり仙人になった。 その後時折見かけたが、やがて行方が分からなくなった、と言う。《文献01》 また、『太平寰宇記(たいへいかんうき)』にある爛柯の説話では、 王質が石室山で碁を囲んでいるのに出合ったのは、 童子でなく仙人なのであった。 |
橘中の楽 | 「橘中の楽」は同じような話で、橘の実の中を覗くと、 そこには仙人が二人で楽しそうに碁を囲んでいた。 |