棋聖戦・結城聡九段 の冴え
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2005年2月26日

                                      高 野 圭 介 拝

伊勢は賢島宝松苑で、
 棋聖戦第五局の前夜祭にて、

結城九段は壇上でも、控えにいても、
端然と、睥睨し、虚空を睨んでいるよう。
緊張の極みなのか、何を決意されているのか、
命を賭した戦いに臨む戦士の仮面がそこにあった。





志摩は羽根一家の古里とか聞いた。中部にも近いし、
当然、羽根の応援団は断然多い。
羽根棋聖の挨拶は次のようであった。

「余計なことを考えずに、盤に向かい、
最後までねばり強く打ち抜きます

その中へ、
私たち碁吉会は・・・関西から、宮垣実、武知ハルミ、
岐阜から、安田陽子、森露子の五名が乗り込んだ。

わが戦士・結城九段は喝破した。

「一回戦に敗れてから、ここまで来れただけでも嬉しい。
皆さまの期待に背かないよう懸命に打ちます。

良い結果が残せるのが私の勤め!」

研磨され、絢爛多彩な筋を繰り出す戦士の
闘志を秘めた力強い宣誓だった。





 私の、素人の戯言では申し訳ないが、
今までの棋聖戦・四局の碁を観戦して感じたことは、

結城九段の芸の冴えが
一段優れているように感じていた。
ここに、冴えとは、石立て、勝負所での手筋の冴え、
決戦を挑みかかるタイミング・・・等々の冴え。
万全の備え・・・・・・疑うところなく。

いっぽう如何なる局面にも、
決め手を与えず、二枚腰で受けきる底力、
羽根棋聖の・・・不調が伝えられるが・・・強靱な実力。

それが、挨拶そのものに、表れていたように思う。


 本局(天下分け目の関ヶ原戦第五局)の推移は決意そのままの進行となった。
いわば、先番の結城が、序盤黒31と、天下を睥睨し、グイとリード。
後は、鮮やか手筋の連発で、粘る羽根を寄せ付けず、
押し切ってしまった好局
(61手まで記載)となった。

この一局に限って私の感想を 敢えて、
自分が当事者として、盤に向かっているとして、


「黒61と、左辺に80目の地を確定したとき、もう、勝負あった!
白は上辺に2つのキリアジを残したままで、石が多いのに、薄い。
下辺に白32が余りにもアジ残りで、白地の中の、黒3子が好形。
もはや、白の希望のない姿としか、思えなかった。」


その中での繰り出す勝負手に、感嘆した。





別室の、NHKの実況放送に参加した。
石田芳夫九段と佃亜紀子四段の掛け合いが鮮やかというばかり。
中でも、佃先生との再会は楽しいばかり。




ここ、賢島はかって、本因坊昭宇が、坂田栄男の挑戦を受けて、
本因坊戦七番勝負の三勝三敗の後、最終局を打ったところである。

 詳しくは『橋本宇太郎全集第三巻』p.375.に記載されている。
 因みに、『橋本宇太郎全集全六巻』は昭和51年6月10日初版第一刷発行のもので、
宇太郎先生自筆の「高野圭介様恵存・橋本宇太郎」とある。

 先番橋本師は黒27が最も遺憾とする手で、打たずもがな。
 この失着から極度の疲労を招き、
盤面8目、コミを引いて、3.5目の勝ちで終わったものの、
本因坊を死守された疲労の激しさからか、対局後、
二ヶ月はほとんど外出されなかったと、聞く。

その棋譜(100手まで記載)

 三木正さまはこの対局に居合わせた、数々の思い出話を披露された。

 当日の対局の控え室には鯛中新八段、田辺巌人ら関西棋院の
面々が詰めかけていたが、碁盤が無いままで、検討をしていた。

 田辺プロが先に帰るというので、棋譜を探しに行こうとしたら、
鯛中プロは「プロなら、この碁くらいは頭に入れておけば」と、言われた。

そこへ、碁盤が届くと、鯛中プロは両手に、白黒を掴んで、
一気に盤上に端から無差別にずらずらと、再現した
という。


この碁は1951年6月27日、
この因縁のある志摩観光ホテルの一室で打たれたものだった。
 その志摩観光ホテルが地元の、第三賢島荘、新賢島荘を併合して、
今回の対局場となった賢島宝松苑を造った。
つまり、同系の兄弟ホテルで、期せずして、
関西棋院の未来を占う一戦となったのである。










紅梅に錦を飾る堅こぶし  圭介


 私たちは、対局開始を見届けた後、津市にあるしだれ梅の名所「結城神社」に参詣した。
結城神社には「結城の錦紅梅」という銘木が今や咲き誇らむとしていた。
必勝祈願を終えて、おのがじし東西に別れ、帰宅したのである。
その明後日、晴れて、テレビの朗報に乾杯をした。

 必ずや、
最終戦を待たずして、結城棋聖誕生の甘酒を干す日を確信しつつ、
擱筆としたい。