美濃部のアクシデント


35年著書『憲法撮要』『憲法精義』などが第 67帝国議会で問題にされ,
天皇機関説」が非難されたため,貴族院で釈明演説を行うが,
不敬罪
で告発されたうえ,憲法に関するその全著書は発禁となった。

告発は起訴猶予となったものの同年勅選議員を辞職,
翌年天皇機関説に憤激した暴漢に撃たれ重傷を負った

(→天皇機関説テロ事件 ) 。


                                           高野圭介


国体明徴運動をひき起こすこととなった。

まず35年2月の第67議会で貴族院の菊池武夫が美濃部達吉
(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,
統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,
天皇の絶対性を否定し,天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものだ,
として攻撃を開始,これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人会や
右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。




不敬罪


1934年に不敬罪 (のち起訴猶予処分)
 
国体明徴運動が起こり、ファシズムの進行とともに美濃部憲法学は
国体に反するものとして攻撃され、'35貴族院本会議において、
菊池武夫の排撃演説を口火として機関説問題は政治問題となった。

同年、不敬罪(のち起訴猶予処分)として告発された。


 著書の発行禁止


1935年に著書の発行禁止処分

天皇機関説が,昭和10年に日本の国体と相容れない「天皇機関説」として
右翼・軍部・政党から糾弾され,それまで通説的地位をかちえていた
美濃部議員の著書『憲法撮要』『逐条憲法精義』『日本国憲法ノ基本主義』の
3冊を発禁処分とした.


達吉襲撃事件


1936年には暴漢に襲われて負傷

戦前2・26,5・15,血盟団事件,美濃部達吉襲撃事件が起きたあとは
政治家は終戦まで軍の気に触ることを言えば
何をされるか分からないみたいな恐怖感が常にあったのです。