内観の俳句 高野圭介(虚石) |
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客観写生 花鳥諷詠 |
歳時記「花鳥諷詠」の序文に、 高浜虚子は「俳句は詩として諷詠する」と言っている。 虚子は「客観写生とは自然を尊重して具象的に表現すること。 まず観察することが基本ですが、それを繰り返していると、 対象が自分の心の中に溶け込んできて心と一つになる。 そうなると心が自由になり、最も心が動くようになる」と言っている。 (詩歌文学館賞受賞のことば) 虚子が句作の方法としての「客観写生」を提唱するのは 大正時代であったが、 昭和初期になると「花鳥諷詠」というスローガンを打ち立てた。 その主張は最晩年まで変わらなかった。 虚子自身の作品から、「客観写生」は「花鳥諷詠」のための技法であり、 「花鳥諷詠」が実作の概念であったと見る方が正確である。 |
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心が動く |
客観写生の問題点は、詠む対象及び表現方法を決める行為そのものに 作者の入る以上、100%客観的な句は存在しえないということである。 芸術である以上、写真と同じく、結局何かに焦点を当てる必要があり、 焦点の選択過程で主観が入る。つまり、 客観写生と主観写生は主観の濃度のちがいであり、 客観写生は主観を抑制して事物の根源に迫ろうとする表現方法である。 |
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ともあれ、作句に当たり、心が自由になり、最も心が動くようになる」 と言っているのに注目した。いったい心とは何だろう。 心は何気なく使っているが、心は人間の中にあって目に見えないもので、 神秘的な霊魂とか、心霊写真に写るガスような形のある物質ではなく、 心は人がふだん何かをしたり話したり考えたりするときに 働いている脳の働きです。 |
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心とは何か? |
心と言えば、思考、記憶、感情、などをイメージするかも知れない。 確かにどれも心に関係した言葉であるけれども、 どれも心を正確に説明する言葉とは言えない。というのも、 心=思考とは言い切れないし、心=感情とも言い切れないからだ。 でも、心にはいろんな意味あいが含まれるから。 正直、定義するのは難しいと思う。 実は、心理学でも「心とは何か」を定義していない。 改めて、心とは何か?その答えが、仏教の中にある。 心とは、「対象を認識する機能」のことと。 認識と言うのは単に「知る」というような意味だ。つまり、 人間の心は身体に依存して機能していると言える。 もっと言うと「対象を認識する=生きる」ということだ。 言い換えると、生きるということは、 常に何かしらの対象を認識しているということになる。 |
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心は 認識・精神 | 心という言葉は日常生活上では殆ど使用されないが、 文芸の中では使用されている。つまり、 心は人の身体に対する精神作用として、 知識、感性、意志。 更には、思慮、配慮、気分、望み、意欲、意識、 用心、気分、気質、個性、性格、人格、道徳など。 比喩的には、趣き、風情、趣向、意味など。 一方、精神医学上では、心は精神、理性、知性、悟性、認識、 知識、本音、気分、愛憎、苦楽など。 また、本能行為と密着する感情、喜怒哀楽の情動など。 |
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本能行為と心 | さて、ここに、本能行為と心に付いて 人は生物の一つとして、 生存に必須な食、性、護身の三大本能を持っている。 この本能の働きには、摂食、性、身の保全を中心に 無意識下で活動しているある物がある。それが心と言えるでしょう。 それがいつの間にか、本能から心が主体となり、 人の性質、状態、認識、行為を支配するものとして君臨している。 ここで、虚子は作句に当たり、 「心が自由になり、最も心が動くようになる」と言っているのに注目したい。 |
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内観する」 哲学のジャンル |
虚子自身のいう「客観写生」は、趣き、風情、趣向、意味など 自分を主体に外部を観察写生です。 私はもちろん虚子の「客観写生」を遵守しますが、 一方で、 作句の姿勢を自分の意識やその状態をみずから観察するという いわゆる「内観する」哲学のジャンルに置いてみたいと思う。 |
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内観俳句 |
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