C世界共通・碁の本質

 この大会は毎年「European Go Congress」と名付けられて
欧州各国を中核に、世界から集まってきて大会が催されている。
なんと5〜600人の碁友が一堂に会し、二週間にも亘って
囲碁三昧に浸るというのは醍醐味の極みであろうか。
しかも本年で13回目である。

 驚くなかれ、同様の碁会が「US Go Congress」として
アメリカでも毎年催され、もう16回にもなる。
ロシアにも、中国にもそれに近いものがすでにあるのに、
どうしたことだろう、日本にはまだその兆しのようなものさえ生まれていない。

 当然とは言え、お互いが話しているのは英語である。
たとえ西洋でも、英語を母国語のごとく操れるというのは学問をした人だけで、
そんなに多くなく、結構エリートの集まりであろう。

   空気澄む囲碁会場に歓の声

 昨今の碁は世界のゲームとなってきた。
碁の規約は日本の中だけで打っている間は
いわゆる「日本ルール」で必要且つ充分であった。
碁が次第に世界の国に広がっていくとき、碁というゲームの
本質の認識、思想の哲学的把握も多角的に捉えられてきた。
 と同時にルール自体の不備も指摘され、不文律の成文化、
コウの手入れ問題、終局の仕方も技術的な変化も問題化してきた。
アメリカ・ニュージランド・中国・台湾・その他と少し違う
それぞれの自国の囲碁ルールが制定されている。

 さらにIT革命と共にコンピューターの敷衍である。
将来はコンピューター自体が碁を打つためのルールが
至上命題となることは必至で、
もしも国際ルールが制定されるならば、必ずやコンピューター・ベースに
則るであろうとは、浅学ながらかく申す小生の予言である。

 事実、すでに日本棋院の囲碁規約、つまり日本ルールは
最近特にダメの処理辺りには最後まで
ダメを詰め合うという実戦的な改正がなされている。 

コンピューターは感情の介入する余地は全くない。
ひとつだけの指示に忠実に従う。
たとえば「終局にしましょう」と言っても理解はしない。
一方が「パス」をして、もう片方が同じく「パス」をしたとき、
初めて自動的に終局の合意がなされる。 

 つまり確としたルールの認識は無くとも、
瞬間の判断には整合性があり、素晴らしい頭脳の回転ではないか。
言葉を超えての判断には感服の他は無い。

   秋の日の青い眼黒い眼輪投げ碁盤