星(4*4)の受けは「一間かケイマか」

                                   高野圭介

小ケイマ全盛
星にケイマにカカリの時、受けの問題に、一間かケイマかに限って検討を加える。

余分だが、私が教えを受けたとき、昭和20年以前(戦前)は
星から大ケイマ受けだけしか許されなかった時代であった。

ここ暫く小ケイマ全盛が続いている。

小林光一が小ケイマ受けを駆使して勝ちまくったことが引き金になった、と理解している。
一間の受けは中央重視の表れで、地に甘いところが、打ちにくい点もあろう。
そういった傾向は「地に辛い」プロの世界には顕著で、現実には小ケイマ受けが断然多い。

福本さんの
研究

この研究は棋友・福本伸男さんが詳しい数値を提示された。

氏は「四隅共星を打ち合った碁」を「四星局」と名付け、
ここ一年間に我々が新聞紙上や週間碁、囲碁年鑑、囲碁雑誌の
プロプロ戦のものを合わせても、10数局。
それに、二年前から保存していた、同じプロプロ戦のも加えて、
計20局の統計からの数字である。

「小ケイマ掛かりに小ケイマ受け」が断然多く、
小ケイマに受けなかったのはたった4局だけ。
それに比べて一間受けは(状況を無視しても)たった数局。

今、詳説は省略するが、如何に一間受けが忌避されているかが証明されている。
それは誠に真実で、一点の疑問を持つものではない。むしろ研究努力に感動した。

コミの考え方
そもそも、
コミの考え方は先手後手の帰納法による史的な慨然説が有力だ。
江戸260年間に隅の優位性の感覚から、小目・目外しの研究が進化した。

この間、一手の価値は10目を超える評価はなかった。

これは江戸時代は3目のコミだった。日本棋院で、本因坊戦が始まって、
最初にコミ3.5目に制定された事実が証明している。
やがて、4.5目になって、これは永らく続いた。

新布石
1933年、信州の地獄谷伝説から巻き起こった
呉清源・木谷実の研究になる「新布石」は、
星は三*三同様、一手で間に合わせるという研究に、
呉は布石のスピードに、木谷は位と勢力に重点を置いた。
星は三*三共々、「この一手!」というぴったりした
カカリもシマリも受けも無いのに着目したのである。

一着の価値  
さて、碁の考え方の一つに「一着の価値」というのがある。
たとえば以下のように・・・
「このハネツギは後手であっても、一着の価値があると信じて、後手に甘んじた」。

以来、大きく変わったのは、一着の価値観である。
盤の中央重視の傾向が顕著となり、昨今、いわゆる「宇宙流」以降、
中央の一着の価値が増してきた。

調和を求める
その後、4.5目は、5.5目、6.5目となり、
今の世界の傾向はイン・ルールの7.5目が先鞭を切ってきた。
つまり、中央では一着の価値は15目と推定されつつあるとしか思えない。

したがって、21世紀の碁の世界は制空権を絶対のものと予見しているわけで、
世に言う「位取り」で、とりわけ接点「天王山」の奪い合いが熾烈である。
したがって、「勢力」と「地合い」の均衡。
プロはこのバランスを「調和を求める」として、
最優先にしていく上で、中央指向はゆるがせに出来ない筈だ。

ただし、これは高野の個人的な偏見ではなく、
碁吉会の主力メンバー松本護さんも同意見である。



コモキュウ

封鎖

 
アマの世界は、攻められるのに弱い。とりわけ死活に弱いのである。
つまり、封鎖されるのは禁物である。
切られて、隅や辺に籠もったら、たちまち局勢を失う方向に向く。

小ケイマ受けは「籠もって窮する」のいわゆる「コモキュウ」の第一歩となり、
一間受けは位取りから「封鎖」へのアクティブな第一歩となる。

一間で
中の碁へ

更に重要なことは、受けた後の石の姿である。

中へ飛ぶとき、一間からトブのは気持ちよい形。
ケイマからは、トックリの悪形になってしまう。
つまり、「中の碁への」次の手がかりがないのだ。

 本来、
隅を一間でも、小ケイマに受けても、隅はどちらのものかという保証はないし、
一間だからと言って、中央に強いと言い切れもしないのだが。


シマリの問題
ちょっと横道だが、シマリの問題
「小目・目外し」で構成する、地合いのバランス最高と認識されてきた
小ケイマシマリは今も生きている。否、永遠に生き続ける。

通常、ぴったりこない「星からの小ケイマシマリ」とは似て非なるものであるが、
両者は同様な感覚で把握されても良い面もある。

初心者指導  
更に、もう一点。初心者への指導の問題

「星の受けは小ケイマが最善」という福本説は確かに頷かれるし、一つの正解と思う。
では「一間受けは中に強くて、良し」というのも立派だし、問題はない。


碁盤の広さ
ただ、「初心者には九路盤から始めて、
徐々に13路盤、19路盤と広げるのがよい」というのも一面の正解ではあるが、

ところが「始めから、19路盤に限る」説も有力で、
「碁盤の広さはイメージとして、初めから変えない方がよい」というのも捨てがたい。
二律背反の世界だ



中央
好点の
凄さ


この盤の広さ論と同様、初心者は小ケイマ受けがベスト、というのは、
初め分かり易くて良い、と安易に受け取って良いかという不安は残る。

これでは中の好点の凄さを感覚として培うことができようか

宇宙流こと武宮正樹九段は
「盤中の好点を打ち続けていたら、宇宙流になってしまった」と喝破する。
西の宇宙流こと苑田勇一九段においても然り。
「中で石を繋げ。線と線の戦いだ」と論じる。


初めから培う  
つまり、この小ケイマ思考は
一間の力強い良さ・地に甘い怖さの無菌室を住処としたもので、
封鎖指向に弱いから、成長段階で、
あるところからの力感溢れる碁の世界に触れ得ないかと危惧する。

少々難しくても、石の背中で戦う眼を初めから培うのが良いのではないか。
それには一間トビ指向も大切である。

何を思うか  
かって、故小山靖男九段
「碁とはどんなゲームか、それをしっかりと掴んだとき
碁が解って来て、飛躍できる」という話を聞いた事がある。

碁は思ったところに打つのがよい。
問題は「何を思うか」である。

つまりは、
「攻めは守りである」を身につける囲碁哲学を確立したら大いに伸びるだろう。


思考回路
攻めの態勢を取らず、堅い碁のまま、隅の地にこだわり、汲々としている人の多いことか。
布石から地について守りから入ったら、その地は見る影もなく縮小していく。

この星のケイマ受け専門の思考回路は変更は難しい。


修整は可能  
怖れずに少々無理でも碁盤の天地の中央で戦い
いわゆる打ちすぎの形で伸びにくい人も結構居る。

この碁を上級指向に修整するのは、碁の骨格を組み直すことで、
相当な修整は可能になると思う。



囲碁
壺中の
天地


「何もしないで負けるよりも、打ちすぎて負けよ」と言うではないか。
囲碁壺中の天地を闊歩するために、中へ出る体質を培おうではないか。