美濃部達吉の資質と生涯
高野圭介 |
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美濃部達吉は美濃部亮吉の父。明治6年(1873年)高砂町に生まれた。 幼少のころより神童と呼ばれ、小学校・中学校も通常より早く飛び付け入学した。 小野中学から一高・東大法学部入学・・・ 1897年東京大学卒業。 達吉は頭脳明晰はとりわけ語学が堪能で、 英語,フランス語,ドイツ語の三ヶ国語を自由に駆使した。 一時内務省に勤めたが, 「成果が見えない」のが性に合わないとの理由で、一年で退職した。 母校に迎えられ,ドイツに留学,G.イェリネックに師事した。 イギリス,フランスを経て 1902年帰国, ドイツ留学から帰国して、瞬く間にドイツ語の翻訳本を出版している。 ただちに母校法科教授に任官, 法制史,行政法の講座を担当し,やがて憲法講座も兼ねた。 戦後の憲法改正に反対,多くの新憲法解説書も残した。 昭和23年5月23日、75歳で逝去された。 |
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美濃部の天皇機関説とは 明治憲法を可能な限り,民主的,立憲的に解釈し,天皇の大権は憲法によって制限されるべきだ。 貴族院本会議場で「一身上の弁明」演説を行う美濃部 (1935年(昭和10年)2月25日) |
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達吉の経済力 |
達吉の昭和初期の年収は6万円ぐらい。 時の総理大臣の年収が1万2千円から比べると、 2018年現在の金額では億単位の年収となるのではないか。 達吉は家計簿を付けていた。 細かいところまで正確に記帳されていたという。 |