囲碁の「国際マナー」提唱

                                               高野圭介

(1)日本文化と囲碁マナー

 パソコンのインターネットで碁の対局が本格的になってきた。
 パソコンで碁を覚えて、パソコンでしか打たない子供が増えてきて、
その子が碁盤を見たときの驚きの声である。
「碁って、木の盤があって、白石は貝だって?」

 その昔、30年も前の頃、サンフランシスコで初心者と碁を打つことになった。
ある喫茶店に行くと、テーブルの上に、白・黒の碁石を二つの山に積み上げて、構えている。

対局中は右手に碁石を一個持ったままである。
 その人が、数年後、木の盤で打ったとき、碁笥や碁石の扱いに戸惑い、
碁石を置く位置のマナーなどは何の頓着もないだろう。

 古来日本の囲碁のマナー・作法は日本独自のものがあって、
基本的に相手に不愉快な思いをさせないということから出発している。
と同時に、日本特有の芸を大事にするところがキーポイントなのである。

心を無心にして勝負するという美しいものがベースになっている碁の心構え、
 その心でいつしか出来上がった作法は形式美を伴い、すべてが美しいマナーとなっている。


日本のマナーを大まかに言えば、

「碁笥を正座の真ん中に置いて、碁笥の蓋は碁盤の右側に、
相手から良く見えるように置いて、打つときだけ石を一個つまむ。」

「石を打つのは、パチリと、一点に絞って石を打ち、
気合いの入る局面では石音高く打っても、元気あってよろしい。」

「敗勢が濃厚で、勝負手が不発なれば、いさぎよく早めに投了する。

相手のミス待ちなど、汚らわしい。碁打ちの風上にも置けない。
棋譜をとるときは決して余分なことで汚さない。等々。」



(2)国際文化の囲碁マナー

 昨今、囲碁が世界に広まり、囲碁の在り方が大きく変わってきた。
碁の環境が大きく変わってきているのを知るや知らずや、
碁のマナーは昔のままを固執していることに、何の不思議も感じていない。

 私たち日本人がお座敷で碁を打つために、やはり相手に不愉快な思いをさせないという、
厳しく躾けられた碁のマナーはこのままで今後とも通用するだろうか?

国際人共通のマナーも同様、相手に余分なことで気を遣わせないことに尽きるもので、
日本人のそれともほとんど違和感がないのだが、両者間に、若干の隙間風があるのに気がつく。
 そういう私たち日本人が直面している問題を提起しようと思う。

 現状を見ると、まず畳で打つことはごく稀となった。
畳の上の作法は無実で、意味がないに等しい。
日本の茶道が畳と着物の上に構成されているに似ている。あるいは、
タバコの煙を盤に吹き付けたり、碁笥をじゃらじゃらしたりはしないが、
でも、扇子をやたらパチパチと音を立てるようなことは許容範囲である。

BG等の音楽はリラックスのサービスとされ、好調だと鼻歌が出てくる。

日本人は一般に音に対して無頓着と、言えるかも知れない。




(3)些細のようだが、問題化する日本人のマナー



私たちが墨守するこのマナーはどこまで生き続けられるだろうか。

(A)もの静かに

私も気をつけているつもりだが、普通に打っているのに、打ち方に力が入っていたようで、
イタリアのジュースさんが私になじるには、「あなたは強いことは強いが、石音が高いのは、
何か私(相手)に威嚇の意志(番外の攻撃的な意志)があったのか?」と。
これには驚いた。でも、彼がそう感じたのなればそうなのだろう。

 そこへいくと、外人は石を持って考えても、やたら高い音を立てて打ったりはしない。
もの静かだ。扇子のパチパチの音もとても気になるようで、
部屋への出入りでも、静かなドアの開閉は身に付いている。

 中国では「石を打つ」のは「下棋」、あるいは「下子」と言う。
菅原道真公作・漢詩「囲碁」に曰く、「手談幽静処 下子声偏小・・・ 」
つまり、中国ではそーっと、石を置く。だから、中国人は日本のように
「パチリと石音高く打ちたいものだ」と言うのを私は聞いている。

 私たちが、意識しないで、当然と思っていることが、そうでないことがあるのに驚く。


(B)教え魔が
うろうろ




日本人にはいわゆる「教え魔」が多い。

対局中、終局後とも関わらず、強い人が弱い人に教えたがる。
それが、教える人の棋力にほとんど関係ないことが一つの特徴というのが面白い。

 相手や周りの人達に気を遣わせることはタブーとしているのに、
アメリカの、あるいは欧州の「碁コングレス」に参加して
、自分の対局が済めば直ちに感想戦が始まる。

初めは小声だが、次第に大きな声になっていって、顰蹙を買うのが日本人と、相場が決まっている。
 日本人が、悪げなく、ごく普通のことが、そうでないのだ。


(C)ハンディ
キャップ


置き石のこと




外国へ行って、強い人と、弱い人の対局が置き石を置かないで、打つことが多い。
Teaching game として、打つ場合は置き碁も結構あるが、
少なくとも、一局打とうと言う場合、先の碁で、置き石はない。

日本将棋には、「駒を下ろす」と言うことになるが、
チェスの場合、駒落ちというハンディを聞いたことがない。
いったいどういうハンディがあるのだろう。

ハンディキャップに関しての感覚は日本のは世界のそれとは違っているのではないか。

(D)投了について

元来、日本の碁には、形式美に満ち溢れている。

 碁盤と碁笥。対局場。対局者の服装から立ち居振る舞い。また対局そのもの。
置き石の順番から、第一着手の位置までが不文律で決められていて、
中でも、石を持たない。棋譜を汚さない。投了のいさぎよさ。心身共にすべてが美しい。

 投了の儀式についても、基本的に私自身、よく考えなければいけない自分を知った。

先だってから「いさぎよい投了と、ねばりの逆転劇」について、
この二律背反の世界に、どう処すかという難問を自分に科しているのに気がついた。





(4)囲碁はスポーツとしてのマナー




プロの実戦中にも数々のエピソードがあるのを指摘してみよう。

 かって、私は公開対局で、白石裕九段に三子敷いて打ったことがある。
そのとき、秒の切れる直前に、ガチャと石を掴んで打たれる神業に感嘆したものだ。
プロに面前で相対して、この凄さを体験できることは滅多に会えないチャンスであったろう。

 天才山部九段が勝負に淡泊で、勘違いで、手が残っていて、なおチャンスがあるのを、
投了してしまって、後戻りが出来なくなって、じたんだを踏んだ、と言う話は有名である。

 坂田栄男九段が林海峯九段との対局で、頻繁な扇子の鳴る音が余りにも高いので、
耐えきれず、抗議を申し込んだという話。


アマの世界でも、

ある学生の大会で、投了すべき碁を、チームのために、大敗の碁を時間切れを狙って、
相手の手にもならないところに打ち込んでいって、ひんしゅくを買ったという話を
原田実さんが「反省を求む」と苦言を呈し、週間碁に記載されたことがある。




アマの世界には、ほとんど回復の見込みもなく、大差の碁を
いつまでも引っ張られて、参ってしまうことがある。

かと言って「もうダメだよ」とも言えず、お下手任せに、遊ばれているような感じも
その場に当たっては耐えるのがたいへんである。






碁のスポーツとしてのジャンル


 日本では碁のジャンルは三つのカテゴリーに認識されている。
芸・福祉・競技(スポーツ)で、一般には「芸」の認識が最も強そうだが、

中国では碁は勝敗がはっきりしている以上、スポーツと認識されている。
だから、公式大会では審判が居て、終局後はすべて審判に任せることになっている。


 ところで、大衆スポーツを、二.三比較して見てみたい。

 まず、テニスと野球。
テニスはとてももの静かで、観衆が幾ら居ても、常に静まりかえっている。
プレーヤーの息づかいも分かるぐらいだ。

野球は賑やかなのがご馳走だ。鳴り物入りでないと、寂しくてならない。

 碁とゴルフにはプレー中でも教え魔が多い。テニスにはない。

 先日来、「テニス・カルタ」の創作に掛かっていた。
「ヲ 終わりまで粘り抜け」また「野球は2ダゥンから」もあり、
最後まで試合を捨てないのがスポーツの鉄則である。






 碁もスポーツなら、投了という言葉そのものも忌避されるべきものだろうが、
でも、いよいよ見込みのない碁には「投了・resign」は最善である。

 でも、一局の碁には帰趨がおぼろに見えてくる場面がある。そういうとき、勝負手に見られるように、
局勢の悪いまま終盤を迎えるか、はたまた玉砕に出るか、迷うのだが、二者択一で、判断は難しい。

 その微妙な感覚の差。それが、日本勢は淡泊。外国人は粘る。
特にアジア人はそういうねばる傾向があるようだ、という証言も聞いているが。
その気質が日本人が国際戦にマイナス面を見せることもしばしばあると聞く。

 私たちアマの世界でも、もう差が詰まらないと分かったとき、
相手が投了しないのを訝しく思い、自分もおかしくなっていく。
少々差があっても、逆転に繋がることもしばしば。
その気持ちが、そのまま自分の感覚であった。

 しかし、王立誠が「投げるな!と、念ずる」というのを聞いたとき、
日本の武士道に、死に場を求める、いさぎよさの問題点が浮かび上がってきた。
 勝負である中で、「投げるな!と、念ずる」とは何と凄いことよ。





(5)世界共通の囲碁マナー


「囲碁の国際化が加速している。
2005ねん5月に名古屋で行われた「世界アマ選手権大会」では、
65カ国も参加し、競技人口も4,200万人を越えたと報じられている。

 2009年には、囲碁、ブリッジ、チェス、チェッカーの四競技を一堂に集めて、
「世界頭脳スポーツ大会」を開催する企画がささやかれている。
 その場合、囲碁に限って、ルールの統一問題が浮上してきた。
 今の主力は日本ルールだが、世界に五つも六つもあるルールの中で、
中国ルールとの綱引きが始まるのか。
あるいはコンピューターの理解できる新ルールの制定案も浮上するのか。

(2005年6月18日日経新聞「文化」の欄に、「囲碁」が記載されました。その要約)
 と、同時に、私見だが、興味深いのは万国共通のマナーのことだ

不文律として、今回縷々論及した「国際化された新・囲碁のマナー」が
どのような形で了とされるのか


 新しいマナーとは、相手に気を遣わせなかったらそれでいい
というのが基本だ。
世界の人々が誰もが遵守できる共通のマナーでなければならない。
恰も、共通のルールでなければ、ゲームにならないように。

だから、「香り高い碁」を目標に、世界で、どこでも通用する碁を目指して、
世界共通の次の国際マナーを提起したい。






 例えば、次の(A)(B)どちらが良いだろう。




(A)

碁石一個を摘んで持っている。
考えて、着点が決まったら、
そーっと置く




(B)

時間制で、秒読みが切れる数秒前に、
碁笥にガチャと指を突っ込んで、
せわしく打つ。




(A)

相手が投了しないことに不服で、
しかめっ面で打って、自分が嫌になり
腹立ち紛れにミスをすることもしばしば。




(B)

形勢がよいのと、勝ちきるのとは別だから、
腹の底から「投げるなよ。自分も最後まで
ミスなく最後まで打ち切るぞ」と、頑張る。





こう考えてくると、マナーについては、私自身、バツ点が幾らでもある。
だから、気をつけないといけないのだが、奮起一番しかない。




「国際化された新・囲碁のマナー」

(全世界の碁友が守れる重要な部分を提唱します)


「石を持って考えたって、
構わない。

相手に何の迷惑も
掛けていない。」




ただし、石を持って、盤の上に遊ばせたり、泳がせたりすると、
迷惑だから、そういうことはしないで、
目立たないように保持しておく程度だが。

(単に迷惑だけでなくて、それを打った!と、認定された。
次に、本当に打ったとき、二度打ちで失格とされた事実がある)



「不用意に、
教え魔・解説魔に
ならないこと




TPOを考えて、レッスンと実戦をわきまえることこそ肝要。
いわんや対局中の口ハサミは許されない



「投了については、
出来る限り粘って、
逆転に繋ごう。」




「最後まで打ち切る。それが勝負であり、
スポーツマンシップだ。」
  ただし、
その碁に起死回生の兆しもないなら、投了が最善である。
むしろ、可能性のない無駄なことはしてはならない。