「鶏嫌い」と「こって牛」

            横井 司

2021年6月21日

神戸新聞に初めて投稿していましたが、
神戸新聞に佳作として掲載されました。



「鶏嫌い」と「こって牛」

                        横井 司


大正十四年生まれの母は、生きていたら今年九十六歳の年女である。
 母は若い時から働き者で、信州佐久の尋常高等小学校を卒業し、
しばらく家の農業を手伝った後、
大阪道頓堀にある遠縁の料理屋に住み込みで働きに出た。

 その頃の道頓堀は戦争前とはいえ、
NHK朝の連続ドラマ「おちょやん」のような賑やさが残るところで、
母は仲居見習いとして働いた。
そして見習いから戦後に続く仲居時代には女友達も幾人か出来、
都会生活にも随分と慣れてきた。

「お常はん、二階の松のお部屋にお銚子三つ持っていってや」
「はーい」
「お常はん、調理場へ鯛のお刺身二つ追加言うといてや」
「はーい」

 最初はお常はんだったが、最後は常ちゃんだったと思う。
何しろ常代が本名だから。
母が生前、たまに出会う道頓堀時代の同僚たちに、
「常ちゃん」と親しく呼ばれていたことを幾度となく私は聴いたことがある。
決して美人ではないが、愛嬌があった。


 母は父の和夫とこの道頓堀で知り合った。
東京の向島で生まれ、浅草で育った父は、
道頓堀の料理屋の女主人とは伯母甥の関係であった。
早くに父親を亡くした和夫は、
弟の平とこの伯母の店を手伝うようになった。

主に仕入れを担当し、
早朝から大八車を引いてその日の食材を求めて働いた。
父は昭和十八年応召し南支に炊事兵として赴いた。
毎日のように鶏を潰し、羽を毟っていたそうである。
それゆえ終生<鶏嫌い>になった。


 戦後の昭和二十二年に母は南支戦線から復員した父と結婚した。
そして翌年には姉が生まれ、四年後に私が生まれた。
道頓堀の料理屋は昭和二十年代後半まで続いたが、
やがてパチンコ屋となった。

父の伯母がその後店を手放したと同時に、
父は尼崎の伯母の連れ合いの人が経営する工場で働くようになった。
 父は五十歳前後までは、屡々風邪を引いては会社を休んでいた。

その分、母は健康そのものであり、
四十代の頃一度子宮筋腫で一週間くらい入院したことがあるが、
それ以外は母が病気で寝込んでいる姿は全くなかった。
母は自分は丑(牛)年であり、
それも丈夫で大きな<こって牛>だといつも言っていた。


しかし、晩年は父と母の立場が変わってしまった。
母は二度の脳梗塞で七十歳代半ばから寝たきりとなり、
八十歳で亡くなった。

父は、五十歳を過ぎるころから、毎冬には、
すりおろし大蒜をオブラートに包んで飲む効果で、
一昨年九十六歳の天寿を全うした。

母が亡くなる少し前、私は母のベッドの傍で、
自分自身を指さして、「これは誰?」と訊いた。
母は「世界で一番大事な息子」と答えた。

父には三年前、老健施設の介護ベッドで、
私の処女歌集『人工島』をプレゼントした。
父は「これで死に土産が出来た」と言ってくれた。