エッセイ 「カッターナイフ」


                         橫井 司

2022年6月20日(水)

神戸新聞佳作入選


 
カッターナイフ
                       横井 司

「ぶきっちょやな、へたくそ」
背後の野太い声にギョッ!とする。製版課の宮本だ。
「そうかて、納期に間に合わせなあかんから、営業のオレも手伝ってるんや」
私は言い訳半分、自分の不器用さが恨めしくなる。
「ちょっと替わってみい。カッターナイフはこうして使うんや」

彼は自分のカッターナイフを取り出して、ニヤッと笑い、
手際よく製版用のフィルムを切っていく。

 印刷過程のフィルム加工や修正は、レタッチ作業と呼ばれ、
今でこそパソコンに置き換わっているが四十年前は重要な工程の一つだった。
 体重九十キロの巨体を揺るがせながら、宮本は作業を進めていく。
同期入社だが、高卒なので私より四歳年下である。

「そのカッターナイフすごいな。形も色もいいけど、値段も高いんやろ。
オレの安物とは全然違うな」

ステンレス製でシャープな形だが、すごく切れ味が良さそう。
彼が引くとスゥーと硬いフィルムが切れてゆく。

「今度メシでも奢るわな」
私が声を掛けると、彼は再びニヤッと笑った。

その週末の夜、三宮の居酒屋に彼を誘った。
「酒はビールでいいか? 今日はオレの奢りやから何でも食べて」
「ビールと鯛のあら炊き、頼むわ」

 酒と料理が出て来る間、職場の草野球チームの話になった。
「会社から今度援助金が出るから、
会社に野球のチーム作ろと思ってんのや。ユニフォームも作るで。
そこでやな、お前が監督になってくれへんか?」

 私の言葉に彼は黙っている。
小さな会社だが、野球チームのメンバーは揃っている。
お客さんのチームと毎年何試合か交流試合を行っているし、
私の営業スタイルも仕事半分、野球半分だった。

「ええよ」
彼は、そう返事をしてビールを飲み、
鯛のあら炊きを丁寧に食べ出した。
彼の太い指に挟まれた箸が細く見える。

鯛の頭と言わず胴、尻尾までの
骨という骨に付いた身をしゃぶるように食べる。
皿に残った骨が変に美しい。

あれから三十年の間、私たちは喧嘩もしながら、
仕事に励み、草野球を楽しみ、三宮の居酒屋で酒もよく飲んだ。

ある時、いつものように飲み始めると、
めっきり痩せてスマートになった彼の口から洩れる言葉に私は驚いた。

「最近酒の味がせえへんねん。腰も痛いしな」
「気を付けや。酒の味がしないということは悪い証拠や。
こんなとこで飲んでる場合やないで」
「わかってる。今度病院行こうと思ってるんや」

 そんな会話があって、一年後の冬に宮本は亡くなった。
肝臓癌だった。享年五十七歳、若過ぎる死だった。

 私の手元には、彼のカッターナイフがある。
遺品として私は彼の机からこっそり抜き出していた。
使うと、まだスゥーとよく切れる。
刃先に彼の大きな身体には似合わないやさしさを思い出すのである。

そして職人気質のキラリとした光りも感じるのである。