エッセイ 「ピンクの名刺


                         橫井 司

2022年9月19日(月)

神戸新聞佳作入選


ピンクの名刺

        
                      横井 司                                  
「これ、また百枚一箱頼むわ」                     
月曜日の朝、印刷オペレータの政君から差し出されたのは一枚のピンクの名刺。

「オッケー。毎度おおきに、ありがとさん。いつもの値段ね。いつまでに要る?」  
「今月の給料もらったら店に行くから、来週の金曜日でいいよ」          
 
彼は大きな顔で、笑いながら応える。                    
笑えば、四十過ぎの独身男には珍しく愛嬌のある顔になる。          

「政君もこんな高い明石のスナックに行かんと、早く嫁さんもらいな。三宮に出ると
なんぼでも可愛いい女の子いるやろ。まあ、ええわ。いつも君がこの店で大金落と
しているから、この名刺一箱、今回も一万円にしとく。税込やで」       
 
営業部に属する私の言葉に、彼はよろしくという感じで片手を上げ、      
紙積みの仕事にり掛かかる。                        

政君は三十年ほど前に、地元の中学校から県の職業訓練校を卒業し、私の勤める
印刷会社に就職した。最初の十年ほどは高砂の営業所で働いていたが、阪神・淡路
大震災のため営業所が閉鎖されると、本社のあるポートアイランドに移動してきた。
がっしりした体格で色黒、性格も素直で仕事も丁寧なので、すぐに本社の人にも
溶け込んで皆に好かれた。私とは同じ阪神タイガースファンであるし、       
パチンコ好きなので気が合った。                       

退社時のポートライナーの駅で彼に偶然出会わすと、満員のライナーにいち早く乗
り、後でゆっくり乗ってくる私を手招きして、優先シートに座らせる。前期高齢者に仲
間入りしたばかりの私は、込み合ったライナーの若い乗客たちに申し訳ないという
素振りで、彼には「まだまだ、そんな歳じゃないよ」と呟いて腰を下ろす。    
こういうことが何回かあった。                         

二年前の六月半ばに、同僚の送別会があった。コロナ禍の谷間だったので、退社
する同僚を囲んで親しい四人が、垂水駅近くの焼き鳥屋に集まった。送別会というこ
とで盛り上がりには少し欠けたが、 酒好きばかりの会なのでアルコールは進む。

午後十一時過ぎくらいにお開きとなり、それぞれタクシーや最終電車で帰っていった。
それから一週間経って、政君が仕事中に変調を訴えて印刷機械の横で寝転んでいた。

「大丈夫か? 早く病院に行けよ」 と、                    
私は彼に軽く声をかけながら、印刷場を離れた。                
彼の頑強な身体なら、すぐに治ると私は信じていた。             

それから、さらに一週間後の会社の昼休みに、政君の家族から電話が有り、彼が  
その日の朝急に亡くなったことを伝えた。
それを聞いた私は、「そんな馬鹿な! 嘘!」と、思わず叫んでしまった。  

死因は急性動脈瘤解離。四十七歳の若過ぎる死であった。            

あれから早いもので二年が経つ。政君の三回忌も近い。一箱一万円のピンクの名刺
が会社の私の机の抽斗に一枚残っていた。それを見ながら、今度彼の三回忌に、彼が
行きつけた明石のスナックを一度覗いてみようかと、私はふと思った。     

七月二日の蒸し暑い晩の夜、私はスナックやす子の重いドアを開けた。       
「いらっしゃいませ」 すぐに明るい女の声が二、三する。八人ほど座れるカウンター席
に先客が六人ほど。私は入口に近い席にそっと腰掛ける。一目でこの店のママと思え 
る紫色のおしゃれな服を着た、少し年嵩の女性が、カウンター越しに差し向かう。 

「端の方ですみませんねえ。よくお越し下さいました。飲み物何になさいますか?」   
「焼酎の水割り、お願いします」 手際よく焼酎の水割りを作った彼女が問いかける。  
「こちらは初めてですね。どちらから?」                     
「垂水からです。 この店初めてですが、以前会社の同僚がよく来ていたもので、
この名刺の仕事ももらっていました。彼の名前は政君というのですが、
今日が彼の三回忌の日です。彼を覚えていますか?」                  

私が取り出した一枚のピンクの名刺に、彼女は目を輝かせる。            
「覚えているも何も、政ちゃんは20年ほど前から通ってもらっていました。あんなに早く
亡くなられるとは。真面目な、他のお客さんにも気を遣う、本当にいい人でした」  
そう言いながら、ママは店のウイスキーや焼酎が所狭しと並んだガラスケースから一
枚のフォトフレームを取り出した。L判用の白い、上品なものだ。写真には政君が右手で
ウイスキーグラスを持ち上げ、恥ずかしそうに笑顔で写っている。          
私はしばらくその写真に見入っていた。                       
          
ママが新しく入って来た客の相手に私の前から離れ、アルバイトの女の子が順々に
私の前に立つ。キミちゃん、リコちゃん、モモカちゃん。私はその都度彼女たちの飲み物
を注文してあげる。政君の命日のため、今晩は余り吝嗇なことは言えない。       

リコちゃんは、この店に来て6年。政君のこともよく覚えていた。三十代半ばで、
ぽっちゃり型である。                           
                                           
「政さんは毎週のように来ていただいたわ。カラオケでも一緒によく歌った。レパートリー
も多い方だった。私がこの歌一緒に歌いたいと言ったら、次に来たときは一緒に歌って
いた。どこで練習していたのかしら?」と、リコちゃん。            

それに答えて私が、会社でそんな歌の話はしなかった。スマホの音楽サイトで練習し
ていたのかな。会社で垂水に住むメンバーで垂水会というのを作って、よく垂水駅前の
居酒屋で飲んでいた。政君が亡くなった時も、その二週間前には彼も普段通りに一緒
に飲んでいたのに」と言うと、リコちゃんが思い出すような目つきで呟く。    
「今日は垂水会があって、ちょっと飲んできたと、何度かおっしゃっていたわ」   

そんな会話があり、最後にモモカちゃんの歯切れよい中森明菜の「飾りじゃないのよ
涙は」の絶唱を聞き終え、勘定を済まし、私はスナックやす子を出た。ママは私に続い
て、通りまで送ってくれた。「ママありがとう、いい店だったよ」という眼差しでママに
一礼し、私は踵を返した。                            

JR明石駅のホームから見える明石城は白色に霞み、ぽっかり浮かんでいた。   

電車を待つ間、今日は半夏生の日だったことを思い出した。明石城の白壁が
半夏生の白い葉とだぶり、それがまたいつしか淡いピンク色に染まっていくように、
私には見えた。