エッセイ「日傘」

                  横井 司

2021年9月20日

神戸新聞佳作入選




   エッセイ「日傘」

                       横井 司

母の日に、娘から日傘を贈られた家人はご満悦だ。
 日傘なんて何本も家の靴箱の傘コーナーにある筈である。
最近老眼鏡も各部屋に置いている始末。
どういう積りであろうか。男の私には理解しがたい。
日傘や老眼鏡なんて1つと言わないが、
2つも有れば十分ではないか。
「そう言ってもお父さん。
日傘は行く所によって替えて行きたいわ。
老眼鏡も各部屋に有れば、すごく便利なんだから」
「男の僕にはよく分からない。
だいたい男には日傘なんて要らない。
老眼鏡なんて、一つで充分だよ」
私はそう答えながら、20年来の眼鏡を外し、
まじまじとそれを見る。
2年続きの網膜剥離の手術で
人工レンズを入れて、もう二昔を数える。
最初の左目のレンズは遠くが見える。
翌年の右目のレンズは近くが見える。
昨今は遠近両用の人工レンズが開発されているらしいが、
その時は無かった。両目が慣れるまでは
階段の上り下りが大変だった。
踏み間違えて落ちそうになったこともある。
対応した眼鏡を誂えたが、
それも慣れないので直ぐに家のどこかにしまってしまった。
人間は不思議な生き物で今では私の頭の中で調節して見ている。
眼鏡は別に無くてもいいのだが、
少しは頭がよく見られるかもしれないと思って、
量販店の度が入っていない、
色が軽めのブラウンの伊達眼鏡にした。
今でも支障が無い。

 5月20日、
家人に新型コロナウイルスのワクチン接種一回目の案内が届いた。
私より一歳半年上の家人に早く届くのは仕方ないのだが、
係りつけの医者に予約を入れると
接種日が8月に入ってからだと私に訴えた。
会社休日に私がパソコンで調べると、
6月3日の木曜日午後1時半にハーバーランドで接種予約が空いていた。
とりあえずそれに彼女の予約を入れ、
係りつけの医者の方には明けの月曜日にキャンセルするようにと伝えた。
 それから一週間後、私の接種券が家に届いた。
すぐに家人からスマホに電話があり、接種券の番号を聞いた。
家人の予約で要領が分かっていたので、
私の分も幸いに6月3日の午後2時半予約となった。
 今年は例年になく梅雨入りが早かったが、当日は朝から良く晴れて、
少し汗ばむほどの上天気。
私も家人もワクチン接種用に片袖のカラーシャツを着て家を出た。
家から最寄りの垂水駅近くの漁港までは自家用車で行く。
平日ということもあり漁港の駐車場は半分ほど空いていた。
そこから眺める垂水の海は、
午後からの陽射しできらきらと光り、釣り客も四、五人見える。
車から先に足を降ろした私は、度が入っていない眼鏡を通して家人を眺めた。
彼女は少し私から遅れて、娘からの日傘をやおら開け、
その中に身体を入れた。
影になった家人の顔から微かな笑みがこぼれたように、私には見えた。