エッセイ 「松ちゃんの事」 橫井 司 2022年3月23日(水) 神戸新聞佳作入選 |
「松ちゃんの事」 橫井 司 松ちゃんは私と一回り下の会社の後輩である。 何よりも生真面目で誠実、無駄口を言わない男だった。 背は少し低いが、 頬は女児のように赤みが少し残り、色白でハンサム。 彼が会社に入った頃は私と同じ営業職だったが、 口数も少ないので、いつしか工務の方に回された。 結婚も一度お見合いでしたが、一年くらいで別れた。 離婚の原因はよくわからない。 彼は四十半ばで両親から離れ、 一戸建てを購入し、一人住まいとなった。 若い時から酒も飲まず、ギャンブルもせず、 女遊びもしなかったので、堅実にお金を貯めた。 妹が一人いて、両親の家の近くに住んでいた。 会社の廊下で擦れ違う時、私が、 「松ちゃん元気か?最近どうや。新しい彼女できたか?」 と声をかけても、ニコニコ笑っているだけ。 「松ちゃん、この間の健康診断で血圧高かったそうやな。 百五十くらいか?」 と再び聞くと、 「百五十六もありましたわ」 と、にっと白い歯を見せ、重い口を開いた。 そんな松ちゃんが七年前の秋の三連休明けに出社しなかった。 それも無断欠勤である。 普段会社をずる休みすることがなく、 精勤な彼にしては珍しいことだった。 私は胸騒ぎした。 普通の同僚であったら気にもしなかっただろう。 かつては私の後輩であり、部下でもあった男である。 三十分ほど車を飛ばして彼の家の近くに止めた。 玄関のベルを押しても反応はなく、 一階も二階もカーテンは全部閉まっていた。 私は会社にその旨を報告し、 その日時間の余裕があったA君に 松ちゃんの両親に電話することを依頼し、 約束のあった得意先に急いで向かった。 二時間後にA君から連絡があった。 両親に電話した後、彼も松ちゃんの家に向かった。 結局階下のトイレで倒れていた松ちゃんを 救急隊が発見し、直ぐに病院へ搬送したという。 松ちゃんは、脳梗塞で前日の晩から倒れていたらしい。 もう数時間発見が遅れていたら危なかった。 二年後、 看護士付きの車椅子で彼が会社にやってきた。 表情もだいぶ落ち着きを見せたが、 右手右足が動かず、上手く喋れない。 語尾がはっきりしないので、聞き取れない。 でも看護士から彼が毎日一生懸命リハビリに 取り組んでいることを聞いた。 「松ちゃん偉いな。頑張れよ」 という言葉が次々に彼に投げ掛けられる。 そのたびに彼は嬉しそうにほほ笑む。 あれから五年。 今年の年賀状の中に松ちゃんからのものがあった。 宛名や名前が活字ではなく、手書きのものだ。 文字が微妙に震えている。でも正しく読める。 「頑張ったな、松ちゃん、これからも頑張れよ」 そう呟く私の心が震えだした。 |