キューバ訪問記 2014年8月15日 関口 清 |
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キューバの文化と国情 |
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初のキューバ | 今回のキューバ訪問(2014/5/14/26)は私にとっては初めてのキューバであった。 過去にメキシコに住んでいた時に2度ほどキューバ訪問の機会はあったが 当時の仕事の関係もあり、実現できなかっただけに、 今回のキューバ訪問はかつてからの思いがやっとかなった旅行でもあった。 |
楽しい旅 | 期待に違わず、私にとっては素晴らしい思いで多い、楽しい旅であった。 その理由はいろいろとあるが、囲碁を通してのキューバ人との親交を 深められたことは当然として、キューバの人々のおおらかさと親切さ、 リズム感と音楽の素晴らしさ、スペイン統治時代以降カストロ政権誕生 の歴史を各所で見聞し知的興味を満足させてくれたこと、 そして自然の素晴らしさ等がその要因であるかと思われる。 |
キューバ音楽 | 第二のキューバ音楽の素晴らしさであるが、あらゆるとこで聞く 音楽とリズムが本当に上手で楽しく、時間を忘れさせてくれた。 もっと聞きたくその場を去りがたい状況が多々あった。 一流のオーケストラ・ブエナビスタ・ソーシャルクラブの演奏は当然としても、 町のカフェ店での演奏、食事の時の歌や演奏、サンチャゴデクーバでの カサデトローバでの演奏グアンタナモでのカサデチャングイ、 等々どれもみな何と上手で聞かせてくれることかと感心させられた。 結局7枚のCDを買ったが、帰国後これらを聞きながら、 たまに慣れない葉巻をふかし、ラム酒のハバナクラブを飲みながら 旅の思い出に浸ること時々である。 |
カストロ政権 | 第三のスペイン統治時代からカストロ政権誕生までについてであるが、 スペイン統治時代については歴史のいくつかの場面を垣間見ることが出来、 かつての知識をさらに深めることが出来た。 カストロ政権誕生については、カストロ一族の誕生の地・ビラン、革命蜂起の地・ グランヒタ シボネイ、襲撃したモンカダ兵舎への訪問に始まり、 博物館での革命成功に至る詳細な説明(最初のガイドさんとの訪問だけでは、 満足できず、その後個人で再訪問して説明を読みふけった)等を 通じてかなり徹底的にカストロ政権誕生につき知識を深めた。 かつてメキシコに住んでいたころ、 メキシコ湾に面する港町のツゥクスパンを訪れた時にカストロはここから船出して、 キューバーに上陸し革命を成功したとの話を聞いたことがあったが、 改めて当時のその船・グランマ号をみるにつけ、メキシコとの関連を思い出した。 |
キューバ の国情 |
キューバの国情については米国の経済封鎖の影響下、平均国民収入は 月収20ドルに至らず、貧しい生活を強いられているようであるが、 教育費、医療費等ただの中で、見た目は陽気な人々の生活であった。 しかしながら開かれる情報化国際社会の中で、 また革命世代が若返る中での指導層の高潔な思想の維持が問われる中で、 今後の国のかじ取りの大変さを感じさせてくれた。 |
キューバの人の親切さ |
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親切さ その① |
まず第一に感激したキューバ人の親切さであるが、 ある日ホテルより4人でタクシーに乗り夕食を食べに旧市内の広場に行った。 そのとき同行者の一人がタクシーの中に忘れ物をした。 この忘れ物は金銭的には全く価値のないもので、 そのまま捨てられてもおかしくないものであった。 その後とある有名なレストランに入り、食事の席に座るときになって、 彼はその忘れ物に気が付いたがもうあきらめていた。 食事をしだして30分後、なんと先のタクシーの運転手が レストランを訪ね歩いてその忘れ物を我々に届けに来た。 感激した彼はタクシー代よりはるかに多いチップをその運転手に支払った。 |
その② | 私が珍しく空港の両替で過ちを犯した。 20万円を両替したとき相手は桁を間違え、2万円を現地通貨に換えて私に渡した。 こちらも不注意にも桁違いに気づかず2万円を数値合わせのみして受け取った。 次の日になって桁違い(18万円不足)に気が付いた。 もうこれはだめだろうとあきらめかけたが、念のため空港に行きその両替店に行った。 そしたら昨日の両替で日本円が18万円多く勘定が合わなかった。 誰の両替か不明であったが、だれか来ると思って待っていたとのことで、 18万円を追加両替してくれた。これには感激であった。 政府の管理下ということもあるかと推測するが、他国ではもうあきらめるしかない 事例だけにその正直さには感心させられた |
その③ | ある日ホテルよりタクシーにて旧市街に行った。 旧市街を見物し、レストランに入ったとき携帯電話を失くしたことに気付いた。 どこで紛失したか不明であったが町の中では携帯電話を使用していなかったので タクシーの中でポケットから滑り落ちたのではないかと疑い、 ホテルに帰ったのちフロントにそのタクシーを探して 運転手に見つけてもらうよう依頼した。 そしたらその日のうちに部屋に届けられた。これまた感激であった。 |
その④ | 私は過去にメキシコ、スペインに住んだこともあり、多少スペイン語を話す。 町のカフェなどに行きコヒーを一杯飲みながら 、素敵な音楽演奏を聴くこともあった。 この折にいろいろな人と話す楽しさは格別である。皆親切で、 日本人に対する物珍しさも あろうがおごったり、おごられたり、 心地よい音楽のリズムの中で別世界の会話を楽しんだ。 |
囲碁と民間交流 |
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囲碁交流 | 親善の囲碁交流については、 ハバナでのキューバトップクラスの数人とは対戦した。 結果は1敗、1引き分け(時間の問題で打掛)あとはぜんぶ勝った。 一敗した相手にも2勝はした。私の日本での棋力は5段前後であろうから、 キューバのこれらの若者たちも同レベルと判断する。一番印象的であったのは、 サンチャゴデクーバでの数多い子供たちの囲碁熱であった。 世話人のヘスス・パストウ氏の準備と演出もあったと思うが 父兄を含めての熱気には感心させられた。 |
民間交流 | めったにない日本人との交流ということもあろうが、いろいろな人が現れた。 その中の一人のご婦人とその後メル友となった。 彼女は囲碁はやらないがその名をリディア・サンチェス・フジシロという。 苗字の最後のフジシロに注目していただきたい。 彼女はサンチャゴデクーバに住み着いた最初の日本人、藤城賢一の孫であったのだ。 最初にお会いした時は彼女の祖父が日本人であること、 彼女はそのことを誇りに思っていることを語っていた。 時間も限られた中で別れることとなったが、彼女は自分の祖父について 調査し本を出したので是非読んでほしい、そして感想を述べてほしいと言い、 後日ホテルにその本を届けると言ってその場は別れた。 その後サンチャゴデクーバを発つ最後の日のバスの中でその本を渡された。 旅の途中と日本に帰ってからその本を読み、後日感想を彼女にメールした。 尚彼女には二人の娘さんがおり、長女(カレリア)はハバナに住み、 次女(キリア)はサンチャゴデクーバに在住する。 キューバは個人でメールを持つことは難しく、企業の業務ならOKとのことで、 次女キリアさんの務める会社の彼女のメールアドレス経由で リディア夫人と連絡を取り合っている。 リディア夫人の著書(Un Japones en Santiago de Cuba)によれば、 祖父のフジシロ氏は1892年現在の千葉県房総半島の大多喜町生まれ、 メキシコに行く予定で1912年に出国、その後何らかの理由でキューバに行き、 サンチャゴデクーバの寄港時重病となり入院、そのまま居ついて、 現地女性(アントニア)と結婚して2児をもうけた。 その長女(マリア・アントニア・ハルコ)さんの娘さんがこのリディア夫人である。 彼女の祖父のルーツを探求する熱意は、たまたま現地を訪れた日本人を巻き込み、 そして長女・カレリアさんを日本に送り出し、千葉県大多喜町にて藤城氏の3-4世代後の 親族との劇的な対面が実現し、そのルーツが判明された。 以上のような背景を持つリディア夫人は日本に対して特別の情を持ち、 何かと連絡を取りたがっている。 今後しばらくは錆びついたスペイン語を再開することになりそうである。 |
謝謝 | 最後になるが今回の旅をセットしてくださった当会の西島さん、 キューバでの関係者、 囲碁協会長・Rafael Torres Miranda氏 (彼は我々の訪問をUS囲碁ジャーナルにも寄稿してくれ、 世界に配信された)そして在キューバ日本大使館の山倉参事官、 芦田文化担当女史(山倉参事官とはその後、氏のスペイン時代の 仕事等での接点も判明し、メールでのやり取りも行った)、 そしてサンチャゴ・デ・クーバでの世話人・Jesus Pasto 氏を初め 関係者の皆に感謝したい。 改めて楽しい、思い出多い旅であった。 そして囲碁を趣味としてよかったとつくづく実感するこの頃である。 |