李方子のこと 李王朝・昌徳宮のラストエンペラー妃 土佐保子 昌徳宮、楽善斎 |
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梨本宮家 | 李方子様、 元の名前を梨本宮方子といい、 梨本宮守正王の第一王女として生まれました。 昭和天皇より半歳おくれです。 日本と韓国、流れのままに生きざるを得なかった女性である。 裕仁親王が皇太子になられたことで、 皇太子のお妃候補のなかでもっとも有力だったのが方子であった。 |
女子学習院に通っていた夏休み、 大磯の梨本宮家の別荘に来ていた15歳の方子は 新聞で自分の婚約記事を見て驚きます。 <李王世子垠殿下、梨本宮方子女王とご婚約> と書き出しで記事は続き、 方子が袴姿で写っている写真が掲載されていたのです。 当時のこと、親同士が決めた結婚が普通のことであり、 結婚式の日に初めて自分の夫となる 人の顔を見たという人も珍しくなかった。 梨本宮家は何度も断ります。 しかし「このことは陛下の思し召しです」と言われると 断ることはできませんでした。 |
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李王世子垠 | 李王世子垠とは、 朝鮮王朝26代高宗皇帝の第4王子で生母は側室・厳妃。 第1王子は第27代純宗皇帝だ。 生母は日本人に惨殺された閔妃であり、 純宗の母違いの弟が垠である。 李王世子垠は、 11歳のとき朝鮮から伊藤博文に伴われ日本に連れてこられた。 日本側は留学と称し、韓国側は人質と受け止めていた。 明治天皇と皇后は、この異国の皇太子垠をとても可愛がられ、 伊藤博文が垠のためにならないからと、 ことわっても明治天皇、皇后は慈しんだ。 |
閔甲完 | じつは、 李王世子垠には、閔という婚約者がいた。 朝鮮国で皇太子妃を選ぶ制度をカンテクといい、 書類審査から再カンテクを行い、最終には3名を選出する。 この3名は宮中行事など3ヶ月間修行をして その成績によって皇太子妃に決定する。 高宗、厳妃からさまざまな質問に対して、 閔甲完はてきぱきと答えたことで、高宗も厳妃もひざをたたいて喜び、 甲完は自分が皇太子妃に選ばれたと思った。 |
伊藤博文 | ところがこの後、 高宗がオランダのハーグで万国平和会議が開かれるので 日本の横暴を訴える密使を送った。 このことが日本の伊藤博文に知れるところとなり、 高宗は皇帝を降り、純宗が皇帝となる。 そして皇太子となった垠を留学と称して 日本に連れて行ったのである。 それから半月後、宮中から婚約指輪が甲完の元に届く。 11歳になったばかりの甲完は 「これで私も李王家の人になった」と思う。 |
カンテク | 数年後、 甲完の家に宮中からの使いがきて、婚約解消を告げ、 ついては、婚約指輪を返していただきたい。 これは陛下(純宗)のご意思です。 甲完の父は驚いて何度も問い返す。 婚約をして10数年経つのに、今日になって解消とは何事かと。 当時の朝鮮では、 カンテクされた女性は国母になったと同じだから 一生結婚できない不文律があった。 兄や姉が結婚しないうちは、弟、妹は結婚できない習慣であった。 そんなことから、 甲完の父は甲完の一生を台無しにするだけではなく、 兄弟まで結婚できないようにするのかと繰り返す。 すぐそのあとに垠と方子の結婚式が行われた。 甲完は生涯独身を通し、食道癌のため亡くなる。 |
李垠殿下 李方子 | |
日本での 垠と方子 |
じつは、李方子様のことですが、
李方子様は結婚式を東京の李垠邸(敷地2万坪建坪5百坪、 現在は東京赤坂プリンスホテルになっている)で行われました。 李垠殿下が日本に連れてこられ、そのまま日本におられたからです。 李方子が夫である李垠とともに韓国に帰ったのは昭和38年。
方子が62歳の時です。 それまでは東京にて暮らしていました。
当時の垠は日本軍人としての立場にあり、 私は方子よりも、むしろ李垠の気持ちを思うと同情してしまいます。
李垠は寡黙だったと聞きます。
伊藤博文に日本に連れて行かれるとき父、高宗が 「どんなことがあっても、それを表にださず、 時節がくるまで耐え抜くように」 と教えられたからではないか。 血は韓国人でありながら、日本の軍服を着、
常に日本に監視されている状態である。 李垠を知る人は 「誰から見ても、理想の日本の皇族として振舞われていた」と 微妙な発言をしておられる。 当時の李王家は日本の天皇家に次ぐ歳費の上に、 朝鮮本国の膨大な財産からの巨額な別途収入がありました。 |
李承晩大統領 朴正熙大統領 |
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方子が韓国でいじめにあったとか、聞いたことがありません。 夫である李垠に韓国民は同情的であり、
その李垠を支えてくれた方子に韓国民は温かく接しています。 垠と方子の結婚は政略結婚でしたが、 仲むつまじく垠亡きあとも方子は垠の故国である韓国で 垠の意思を継ぎ福祉事業を行ってこられた。 1989年4月29日、 方子は昌徳宮、楽善斎で亡くなる。 87歳だった。 |