囲碁雑感 (思いつくままに)

                                             高阪泰男自戦記

高野圭介 vs 四子 高阪泰男

2008年8月26日 離宮前倶楽部・会館

77手打ち止め


職場の碁
私が碁を覚え始めたのは、昭和26年ごろでした。

電鉄会社の電気関係の技術者として働いていましたが、
同じ職場に碁を打つ先輩(当時3級位と思う)が居りましたので
教えてもらったわけです。

1年くらい経ったら石の生き、死にそして
碁がどのようなものか少しは解って来て、
面白くなってきたように思います。

会社には、碁の好きな人が沢山いて、
特に車両関係の技術者には、兵庫県のチャンピオン
(アマチュアの本因坊か名人)になった人やら、
有段者の人も何人かいました。

 そして会社の共済会の主催で1年に2回春と秋に、
囲碁大会があって、
そのアマチュア本因坊が大会の審判及び大会の仕切り役で、
本当に和気藹々と面白かった大会の思い出として残っております。
(私は昭和30年くらいから参加)

そして昭和50年くらいからは、
人員削減や輸送力増強工事などの仕事におわれて
碁は出来なくなりました。


阪神、淡路
大震災


 平成3年に第2の会社を退職した後は、
碁をしようかと思いましたが、
カルチャーセンターの募集に惹かれて
陶芸を2年、書道を2年勉強しました。

その間に阪神、淡路大震災にあい半壊の被害を受けて
その後始末や、水を貰いに行ったりパンや弁当を貰いに行ったり、
本当に大変な目に合いました。

楽碁会
阪神、淡路大震災の後、自治会活動に参加しました。
御蔭で色々沢山の人と知り合いました。

 囲碁も20数年のブランクがありましたが、
自治会活動をして新村さんゃその他多くの人とと知り合って
碁を打ち始めたのも、平成9年頃だったと思います。

 そしてある役員会の時に新村さんと枝光さんと私とで
自治会の囲碁部を作ることを提案し、承認され、
名も「楽碁会」と名付けて発会しました。(名付け親は新村さん)

碁友会
会員も平成9年3月には6段から4級まで19人在籍し
その年の12月に7段から4級の21人を
A、B,2組に分けて大会を開いております。

その後毎週の例会に来る会員が少なくなり、
平成10年に須磨区老人会離宮前クラブに
囲碁部「碁友会」を立ち上げて、
「楽碁会」を閉会としたわけです。

勉強塾
 碁友会は幹事、会員は次々と変っていますが現在も健在です。
その中に勉強塾を設けて、
昨年6月から高野先生に指導して頂いています。

「碁をどう捉えて、どう考えて、そして打つ」という事だそうですが、
皆様もご存知のように碁は奥が深くて難しいものです。


実際には先生と対局したり、皆で連碁をして、
その後に石を打った時の考え方、悪かったところ、
良かったところ、等を石を並べて詳しく教えて頂いています。

兎に角負けてもよい、相手を攻める姿勢が大切とも言われます。


野球も平常心

先日中国北京のオリンピックが、盛会のうちに幕を閉じました。
日本も水泳、体操、レスリング、などは好成績を収めたのですが、
悪かったのが野球でした。

プロ野球の選りすぐりの選手を集めたらこそ、絶対に金メダルを取ると
思っていただけに、本当に残念に思いました。

理由はいろいろ言われておりますが、あの試合を見ていて、
おさえの投手が悪かった、思ったほど打てなかった、
落球や、暴投等のふだんありえないようなエラーが出て、
相手を勢いづかせた物と思います。

これは余りに勝たなければならない、失敗してはならないと言う
責任感、緊張感から、平常心を失ったからだと思います。

事実、帰国してからのそれらの選手は皆立派にのびのびと
活躍しているのをテレビで写して皮肉っていましたね。




碁も平常心

碁でも同じようなことが言えると思います。

私は囲碁大会等沢山の人が集まった時にはなんとなく緊張してしまいます。
そして対局がはじまると思わず手拍子で打ったりしてポカをしてしまいます。

やはり適度の緊張感はよいけれど、平常心が大事なんですね。

 
これからは石を打つ前にひと呼吸して盤面をもう一度確かめて
打ちたいと思っておりますが本当に出きるでしょうか。