武宮正樹宇宙流の名言


                                         高野圭介 編

 人生観
碁は「人生観と人生観の闘い」と言うこともできるでしょう。

  碁盤は人生観を表現する場であり、そこに打たれる石は、
その人生観を形にして明示する道具なのです。

  お互いが盤上で自分の人生観を表現し合う。
これが、盤上での対話ということになるでしょう。

 自然体
無理をしないで自然体で生きても、最善手は必ず発見できます。
  それどころか、自然体で生きることが、最善手の発見につながるのです。

石の自然な動きととはいったいどんなものでしょうか。
  石は外部へ発展したがっており、思い通りに伸びていくことが
自然の動きにほかなりません。植物とおなじですね。
最初は地面から芽を出しますが、どんどん上に幹を伸ばしていきます。

 美的要素
抽象性、創造性、そして感性に訴える美的要素。

  このように碁は、どの点をとっても神様の贈物としか考えられないのです。
  神様は、人間が美しい芸術を創造するための道具として碁を贈ってくれた。
これは間違いのないところです。

愚形というのは、石に働きがないことをわざわざ見せびらかしているようなもの。
馬鹿丸出し、というやつですね。碁は美しくなければなりません。

安定」よりも「変化」とか「可能性」を好むのですね。
 「変化こそが美しい」という感覚が、私の中に確実に存在しています。

見た眼にも、自然な動きは美しいのに対し、不自然な動きは不恰好なものです。
ゴルフでも、上手な人のスイングはきれいでしょう。
ボールを打つという目的に対し、無駄な動きがない。
無駄がないということは自然だということで、だから美しく感じられるのです。

楽しくフィーリングで

 「発展性」「可能性」


 調和を求める


 碁をフィーリングで覚えるとはどういうことかというと、絶対に理屈を考えず、
見たまま、感じたままの印象を吸収するということです。

 碁の勉強に苦痛が伴うようではいけません。
碁が好きになるのが上達の第一の秘訣ですから、
勉強もリラックスして楽しくやるようにしてください


 私の囲碁感・人生観の中で、「発展性」「可能性」というものが、
  実に重要な位置を占めている――つまり私は「可能性のある碁が好き」なのです。

調和を求めながら自分の打ちたいように打つ。その結果として勝ちを得る。
  これが私の理想とする碁に対する考え方にほかなりません。

効率を競うゲーム
 碁とは石の効率を競うゲームですから、
  相手に働きのない手――何手もかけて眼二つで生きるようなことを相手に強制できれば、
  かなりの確率でその碁には勝つことができるでしょう。

私の師匠の口癖が、「戦って勝て」ということです。「碁はわざわざ地を作るものではない。
戦うことによって、地は自然とできるもの」と教えられました。

 定石論
  碁には定石や布石の型がありますが、
 「定石だからこう打つ」というのでは固定観念にハマってしまい、
のびのびとした碁が打てません。

  定石は一つの例、目安ぐらいなものと認め、それに頼らないことが大切です。
  いつもいつも定石通り打って、どこがおもしろいのでしょうか。

 石の働き  
見た眼にも、自然な動きは美しいのに対し、不自然な動きは不恰好なものです。
  無駄がないということは自然だということで、だから美しく感じられるのです。

  愚形というのは、石に働きがないことをわざわざ見せびらかしているようなもの。
  馬鹿丸出し、というやつですね。碁は美しくなければなりません。

 「碁とは最後に地が多い方が勝ちというゲームです」とお話しているのですが、
  この言葉の中で特に「最後に~」という部分を強調するようにしています。

最初から地を取りたがるような碁は魅力もなんにもありません。
隅に縮こまった地なんか、増えも減りもしない。「ふえもしないが、絶対減らない。
そこが安心できるところだ」と実践派は言いたいのでしょうが、
そこがいちばん面白くないところです。

形勢判断  
「感じ」というと少し大ざっぱに聞こえるかもしれませんが、べつの言い方をすると、
 「石の勢い」というものをよく見極め、それで形勢判断をしているのです。

ただ地を数え、その数だけで形勢判断をするのは、石の流れを見ずに
ストップモーションの画面を見るようなもの。
これまでの石の流れを掴み、このあとどう流れていくか、
動きを感じ取らなければ正しい形勢判断はできません。

 私は常々「碁とは最後に地が多い方が勝ちというゲームです」とお話しているのですが、
この言葉の中で特に「最後に~」という部分を強調するようにしています。

碁とはいったい何か   
「碁とはいったい何か」と聞けば、殆どの人は「地を争うもの」と答えるでしょう。
しかし私には「地を争うもの」という感覚がありません。
地はお金を連想し、「どっちが金持ちか」などと金の勘定をするようなことは嫌です。