「広がるイシクルからのご縁」 後藤聡自戦記 高野圭介 vs 三子 後藤 聡 2005年7月17日 於 アドラーホテル 200手以下略 白12目勝ち |
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ラインとドナウの分水嶺に立って |
後藤 聡 チロルでは、イシクルに到着した翌日、二局教えて貰いました。 一局目は私が3目勝ち。二局目は中押しで投了しました。 それで、本局は三局目になります。 局後に、いろいろ教えていただきましたが、 「お公卿さんのようなおっとりした、甘い手が多い」と、 言われたことはよく覚えています。 しかし、具体的な手についてはきれいに抜けております。 |
私のイシクル行きは四年続けて、四回目になりました。 初めは、とにかく行ってみようと、思って行ったのですが、 中山先生の人柄に魅せられたこと。 チロルの大自然が素晴らしかったこと。 ご一緒した人達が楽しい方たちであったこと。 ドイツやオーストリアの碁打ち達との交流が魅力的であったこと。 いろんなことに惹かれました。 しかし、今年は体調を崩し、チロルに居たときに始まった下血が 日本に帰ってからも続き、全く参ってしまいました。 ようやくこの頃になって、止まったのですが、今年は時差ボケも長続きしまして、 いよいよ歳には勝てないものだなぁと、思っています。 |
ところで、私の属している町の囲碁クラブで、高野さんのことをお話ししたところ、 昭和50年代の後半から60年代の初めの数年間、 東レ大阪支店に勤務していた頃、高野さんに会ったという人がいて、びっくりしました。 その人は中島惇と言います。 中島さんは当時のことをいろいろ話して呉れました。 高野さんは東レエクセーヌで作った碁盤を開発されました。 それを東レ・高野のと共同特許を取って、商品化しました。 その機縁で、親交がどんどん深まりました。 高野さんはなかなかのアイディアマンで、エクセーヌの開発部とも いろいろと親交があったようです。 彼の言うには「碁吉会」は「碁きち会」と言っていたようで、 今の名前の方がいいと言い、私が戴いた「囲碁格言カルタ」がずいぶん気に入って、 コピーをするから・・・と、持って帰られました。 とにかく、世間は狭いものだなぁ・・と、つくづく驚いた次第です。 |
中島惇さんのことは 碁吉会ホームページ→碁吉会前夜の足跡(一)→碁吉会開幕前夜(二) →碁吉憲章制定→注:後に「碁キチ会」が「碁きち会」に、 また今は「碁吉会」となった。 ・・・参照のこと。 後藤さんは医者としては抜群の実力者と、中山先生の折り紙付きの打ち手。 以上、高野注。 |