『熱心な素人は玄人に優る』

田路舜哉(住友商事初代社長)

『熱心な素人は玄人に勝る』 結城三郎著 日本能率協会、1991年

                                                高野圭介



上海にて

前列左から、高野宗助・二人目が本條猛二・三人目が田路美佐緒夫人・・・・後列左から三人目が田路舜哉

田路舜哉は昭和7年10月に住友上海販売店支配人として上海に赴任
昭和12年シナ事変勃発。昭和13年1月に住友金属伸銅所赴任・・・職歴

田路舜哉のこと
田路 舜哉のこと

1893年11月12日 - 1961年7月5日)は、日本の実業家。住友商事の創業者。
「ケンカ田路」・「ムラマサ(名刀村正の意)」の異名をもち、
住友商事の「建業の大宗」と称された。

住友の不文律
住友は三井、三菱と違って大正九年(一九二〇)に総理事・鈴木馬左也が
『住友は絶対に商事をやってはならぬ』と“商事禁止令”を出していた。

当時、住友在籍の従業員は二十万人で、就職口を増やすのが先決であった。
これが住友の不文律となっていたが、敗戦後、
吉田俊之助・総理事の決断で商社の設立に踏み切った。

商社の設立
住友本社で商事進出の構想を練っているとき、住友本社人事部は
「商事部門の統括責任者となる適任候補者を至急選び出すように」との命令を受けた。

しかし候補対象者は全住友幹部、住友本社、連系会社(直系)、
関係会社(準直系)、特殊関係会社など、人材はキラ星のごとくいる。
その中から最適の候補者を選び出すのは、気の遠くなるような作業であった。

ところが、期せずして人事部内の意見はある人物の名前で一致する。

別子の三羽烏
住友金属工業の取締役・田路舜哉であった。

田路の名前は以前から人事部で評判であった。その評価・・
彼は「切れ者。筋をとおす人。怒ると怖いが、理不尽でなく、情に篤い。」

田路は住友別子鉱山時代に「別子の三羽烏」のひとりとして勇名を馳せていた。


田路社長に
一致して推挙


しかし、別子銅山閉山の際に、新居浜の後栄事業の対応をめぐって、
田路は、住友本社の左遷人事で上海勤務となっている。

人事部はこの問題を把握していたが、候補者第一号として田路を選んだ。

住友各社の人事権をもつ総理事古田俊之助に田路を推薦した。
古田は本建設産業に併設する商事部門の統括責任者に田路を指名した。

玄人より素人
日本建設産業(住友商事の前身)の責任者には田路舜哉が就任、
約七百人の社員が住友や関連会社から入ってきた。

「熱心な素人は玄人に優る」「前だれがけの商人になれ」とハッパをかけ、
田路の言葉が素人集団のスローガンになった。

商事は住友内の“異端児”としてのスタートだけに、常に拡大戦法をとり、
あらゆる分野に積極的にうって出た。

将来のためになると思えば、多少のリスクをおかしてもやれ」と。

昭和二十年に船出した住商は二十六年には年間売上高で業界十六位、
三十二年には八位に急成長した。

本條猛二のこと
本條猛二のこと

実兄の田路舜哉は住友商事の創業者。

本條猛二(ホンジョウタケジ1902年4月19日 - 1968年9月18日)は大正、昭和の実業家。
本條商店主、山陽自動車工業、宅洋海運、山陽自動車運送元社長。

高野智恵子のこと


高野智恵子は本條三兄妹の末妹である。
なお、今の宍粟市・田路市長と田路舜哉の姻戚関係は不知。

高野家の直系

高野文吉・智恵子--長男:圭介・美津子--
長男:雅永(投資顧問:東京)裕子--雄太(在ロンドン)。
次男:雅晴(公認会計士:大阪)
三男:雅彰(歯科医師:京都)雅世--愛理
(インターナショナルスクール)