イスラムとキリストの相克(U) 高野圭介 スペインのキリストとイスラムの抗争の構図が浮かんできた。 私は寡聞にして、三大巡礼地は以下の通りと思っていた。 実は他にも二.三あるのを加えると・・・ 1.イスラエルのイェルサレムはもちろん神即イエスの殉教の地。 十字軍を送って、聖地を守護する聖戦だった。 2.ローマはその最も上の組織の総まとめたる大司教であった。 キリストの再来の重要な証人、聖ペテロはローマカトリック初代の司教であり、 ローマこそ聖地であると言っているではないか。 3.スペインのサンチャゴ(サン・ジャック<仏>)にある聖地。 聖ヤコブ(=聖イヤゴウ・聖サンチャゴウ)が遺言した。 「自分の死後は聖体の指示したところへ舟で運べ」 船はスペインの北西の海岸に着いた。 そこをサンチャゴと名付けた。 4.イギリスのカンタベリー教会大司教の聖ペケット 国王・ヘンリーUが教会の裁判管理権を制限したことから 国王と大司教が対立し、大司教が暗殺された。 この殉教で彼は聖人となった。 ただし、現在では聖地と言われていないようだ。 5.トルコはエフェソスの神の母・マリア 今回訪問した聖地。 3.サンチャゴには特に興味がある。 フランスのサンドニ、シャルトル、ヴェズレイ、リュピュイ、アルルの 五つ街から始まる巡礼街道は フランシスコ=ザヴィエル(シャヴィエル)(Xavier,Francisco de 1506-52)は城主の子。 哲学教師から海外布教を目指すイエズズ会を創った。 そのイエズス会を通り、ピレーネ山脈を越えて、 イベリア半島北西端のサンチャゴコンポステラで終わるおよそ760キロの道のりである。 『サンチャゴ巡礼記』には遠くフランスからの巡礼者が多くいて、 パリを出ていく門を「サン・ジャックの門」と言うが、今なお存在する。 当時サンチャゴへ。多くの宿場には巡礼者が溢れていた。 この敬虔なる巡礼者は多くて、道がすり減って仕方がない。 そこで、道に土を埋めて一生を送った人が聖者となったという話も残っている。 また、聖地サンチャゴにははるばる着いたと言って柱の同じところに 手を当てたから、手の形にすり減っている柱がある。 この敬虔なる巡礼者を保護するためにローマから軍隊が派遣され、安全を図った。 結果として、イスラム教はスペインはグラナダのアプハンブラに留まったまま、 イスラム教の欧州席巻は食い止められたことになった。 この史実とローマの意図の因果関係は キリストとイスラムの暗闘の中で、 スペインでは意図的なサンチャゴの設営が見え隠れするが、 注: 以上サンチャゴ事情は、鈴木利章前神大教授の、いわゆる 「鈴木史観」ともいうべき解釈によるところが大きい。 さて、4.聖地カンタベリーについては『カンタベリー物語』に様子が知れる。 中性には多くの巡礼者がカンタベリーを訪れ、 英文学史の中性を代表するチョーサーの『カンタベリー物語』には、 その巡礼の道程でさまざまな人々が興味津々な話を 物語るという趣向の作品である。 カンタベリーの街の中には、14.5世紀の古い建物が多く残っている。 その中に、ビルグリズムホテル、訳せば「巡礼者の宿」と言うのがあったが、 『カンタベリー物語』の根底にはこの巡礼がある。 単に多様な人生の物語が並べられているのではなく、 それらが巡礼行の中で語られる点が重要で、 「人生は巡礼である」という深遠な思想が秘められているのである。 −新保祐司(都留文科大学教授)「人生は巡礼を実感」より− トルコとスペインに於ける・・・抗争図 鈴木史観に擦り込まれている私には 今改めて、更にトルコのエフェソスが、 新たに巡礼の聖地に加わったのが驚きだった。 トルコの聖マリア家屋は5世紀発見と言われ、 イスラム教偉大なメブラーナ師は7世紀の人なので、 キリスト教の意図的な工作は当然考えられない。 ただ、キリストサイドでは巡礼保護の名目で、 いつでも軍事力での抗争が出来るわけだ。 むしろ、時系列として捉えれば、後から参画した イスラムの抗争工作の方が考えられるのだが・・・ |