極楽と地獄


                                 宮垣 実




 2004年11月20日(土)高野先生に同行して、
いきいき塾へ三度目の参加をしました。
会場の松本護さまのご自宅は素朴な山村そのもの。
どの家も生け垣に囲われ、広々としたお家敷周りも
何となく京都情緒が偲ばれる静寂な所です。

いきいき塾の碁会
午後1時から始め明朝午前1時までということ。会費\1000.
成績は点数制で一局ごとに持ち点が上下し、
勝負の結果は連綿と受け継がれます。

中でも、武知ハルミさんの外国からの友人たち
ドイツ人2名(Mr.Micheal Marz, Miss Mnuela Lindenmeyer)
イギリス人1名(Mr. Francis Roads)が大会を彩りました。
ちょうどこの日は総勢12名となりました。

 私達二人は伊根の船屋に行く予定を組んでいて、
午後4時には暇乞いし、はやばやと丹後半島に向いました。
秋の夕日はつるべ落とし。5時半には暗くなり、
マイカーの右方には海が拡がっているのですが、
暗闇の道路面ばかり見てのドライブは景観ゼロ。
午後7時伊根着、早速かに料理を頂き、一局打って就眠。

初め、天橋立の日の出を見るつもりでしたが、
橋立を囲む山々は高くて、橋立の日の出は聞いたこともない
無理筋・・・というので、丹後半島の日の出に変更。
サンライズは午前6時45分なので、6時に宿を出て、
千枚田にぐいぐいと昇る海上のサンライズは
太陽の梯子「Golden Bridge」に私達を結び、
見事な日の出に感動を覚えたひとときでした。

 丹後の伊根には船屋という珍しい家並があります。
海岸ぎりぎりに建てられた母家の一階は漁船のガレージそのものであり、
自動車が船と入れ替わったという表言がぴったりで、
一年を通して僅か50pしか潮の干満の差がないという
不思議な現象だから、こんな家が軒を連ねている。
奧尻の地震の津波にも大丈夫だったという。

 天橋立は丹後半島の根っこにあって
風光明媚な日本三景の一つで知られていますが、
250本の松が折れたり根こそぎ倒れたりして、台風の被害はひどい。
台風の後1ケ月そこそこでは倒れた松が通行の邪魔にならぬよう
何となく片付けられているだけであった。
やがて、すべて撤去されるという。

歩いて、大天橋を散策する。
双龍の松は根から掘り返されたように倒れている。
ところどころで急に空が明るくなり松の枝が見えなくなる。
小天橋サイドでは、晶子の松、蕪村の松が折れてしまって、
白砂青松といっても、松は自生だけでなく、植林もされているようで、
「他所から持ってきて植えた松は弱いです」
と地元の人は言っていた。

先日の西日本を縦断していった台風23号がもたらした集中的豪雨が
裏日本の山々に与えた傷跡を尋ねるのも一つの目的だった。

その一つ、円山川では
但馬の豊岡の堤防が決壊して8000戸が浸水の憂き目に遭っている。

今回は、もう一つの由良川を尋ねる。
 国道175号線は明石から西脇、福知山を通って由良川の川尻へ至る道で、
大川橋という立派な鉄骨造りの高い橋の橋詰めが
国道178号線との合流地点となっている。

台風当日の夜にはこの由良川が大洪水を起こして国道に立ち往生した。
バスやトラック乗用車を次々に飲み込んだ。
この事故の有様を翌朝テレビで見て何たることかと驚いた。
新潟地震の崖崩れで九死に一生を得た有山優太ちゃんの場合と違う。

ここは過去に何回も水没して、危険区域という立て看板が立っている。
バスが立ち往生した現場から200mほど川上の方に
昭和28年の台風で7m92pの水がきたという標識がたてられている。

地元の人はここは大水が出たら道も田圃も完全に水没する所だと
周知しているせいか、家々の敷地は一段と小高いところにある。

他所からきて災難に遭ったたトマト・バスは勿論のこと、
自動車で走っている人間には誰一人として分かりようがない。
つまり、逃れようがなかった。






読売新聞 2004年10月21日京都市舞鶴市志高遭難現場


当時の報道を振り返れば、
 トマト・バスに乗っていた37人の公務員退職者の方や病院退職の
看護婦の方々はあらゆる知恵を絞り、
一致協力なさってよく助かられたことと敬服します。
石川県から来ていたトラックの運転手は自分の車の屋根にいたが
足をとられて濁流に流され後日遺体で収容された。
バスの屋根で夜を明かした皆さん方はたいしたものと
感心する以外何も有りません。

今回八木町のいきいき塾を訪問した小旅行は
行く先々この世のバラダイスでした。
しかし志高という地獄の1丁目も教えてくれました。

命取りになるような危険地帯がこんな何でもない所に
あるんだということを実感して知りました。