人生一万日

                                              高野圭介


 1_は10日  
 20歳の頃、1bの物差しを見ながら、人生を思った。

 人生50年というなら、今から30年間生きるとして、365日を掛けて、1万日。
 1bは1000_だから、おお、1_は10日に相当する。
 この、10日間に、この眼にありありと見える1_を費消した。

「これは何ちゅうこっちゃ

 時は人生なり
 それから、ん10年、ほど経ずして八十路の坂に差し掛かる。

 今から3年生きるとして、1_は1日。
おお、刻の単位はかっての万が千に、10日が1日に取って代わっている。
 数値でも、一期一会がより切羽詰まっているのが分かる。

そうだ、いよいよ時間は即人生そのもの。

時は金なり・・・から・・・時は人生なり・・・になっている。
 つまり、毎日が時間との相克だった。



人生収奪


 講演会の講師は定刻きちっと始める。決して遅れない。

時間にパンクチュアーというのは時間と生命の関係にシビアからだと思う。

仮に、千人の聴衆に、10分間待たせたら、
一挙にトータル一万分を収奪したことになる。


一万分を一人に換算したら、一日は1440分だから、
何と、丸々6日間垂れ流しにした計算だ。
人生収奪では講演会といっても話にもならない。

 「切れ負け」  
 碁のプロは絶対時間を守る。

碁の勝敗に関わりのある要素に、時間の概念が不可欠となってきた。
お城碁的な時間から、いわゆる「切れ負け」という過酷さ。
これが時間厳守という習性となってきたのか?

 「サンデー毎日」  
 そう言っても、今となっては「サンデー毎日」が日課の自分だ。



自分自身に時の規律を設けないと、時に背中を向けられそうだ。
無意識にはゴマンとある時間・・・、万という数字を思った。

「一日でも万デー」 
 数詞としての万は味けもないが、多いの代名詞でもある。

 貧者の万燈・万華鏡・万一・万三つ・万札・万感・万巻の書・
 季語の万緑・富士山頂は標高1万尺・万分の1のお礼返し・
 百万辺・千万あれども我行かん・億万長者・etc.

 万ヶ一にも「一日でも万デー」とは言わない。