「人間の業の肯定」

立川談志の落語論は「人間だから」というのである。

                                                    高野圭介

 なずんでいる落語
談志師匠は欠点だらけの人間の生きざまを描くのが本質として
「落語とは人間の業の肯定」と唱え、卓越した心理描写で語る

「芝浜」や「紺屋高尾」などの人情ばなしを得意ネタとした。

「傘碁」「長屋の花見」「寿限無」などは私には自分自身を浮き彫りにしているように感じて、
自分が最も親しみなずんでいる落語なのです。

その主題は、いたずら、忘れやすい、ごまかし、おかしみ、などに満ちており、
テレビの「ひょっこりひょうたん島」「お江戸でござる」など、
「すぐバレるいたずらをしてベソをかく」人間らしさが同質で、私の中で同一化していく。

人間なのだから
人間の業なんて早く言うと「何しててもいい。」そういうことなんで。
それも人間だから、これも人間だもん。喜怒哀楽、悪事善行、すべて許される。
生きている人間なのだから。

つまり、人間だから、やられても、ゆわいちゃっても、
してもしなくても、すべて許されると思います。




談志師匠






談志師匠が過日他界しました。
あの奔放な生きざまは彼のオリジナリティが
余程しっかりしていたのだろうと、インターネットで彼を追いました。

談志さんの弟子・立川談春さんの『赤めだか』に、こう言っています。

 
談志師匠に「道灌」「狸」という落語のネタの稽古をつけてもらった際に
「型ができてない者が芝居をすると型なしになる。
メチャクチャだ。型がしっかりとした奴がオリジナリティを押し出せば型破りになれる」

だから、まずは稽古をして型をつくることが大事なんだ)、と指導されたことを振り返って)


現在の自分がこのエピソードを振り返って感じる立川談志の凄さは、
次の一点「相手の進歩に合わせながら教える」に尽きるとも。


掛け算しかできない者に高等数学を教えても意味がないということに、
僕は頭ではわかっていても身体が反応しない。

教える側がいずれは通る道なのだから今のうちからと伝えることは、
教えられる方には決して親切なこととは云いきれない、ということを
僕は弟子を持ってみて感じた。混乱するだけなのだ。

学ぶ楽しさ、師に褒められる喜びを知ることが第一歩で、
気長に待つ、自主性を重んじるなど

お題目はいくらでもつくが、それを実行できる人を名コーチと云うのだろう。 


 
ここに指導についての談議は「碁は人間の業の肯定」で納得した。
碁の学習・自習にも当然該当する。
否、自習のみならず、碁に親しむ姿そのものだ。

ところで、みんなの碁はおよそ3つに分かられる。
その内の、どれでも良いし、ダブっていても構わない。
それが何であれ罷り通っていくのは、それが自分だけの碁であるからだ。

1.棋戦に出て、 トップの棋力を争う。
2.囲碁を考え、碁の真理を追究する。
3.棋友と打つだけで、存分に楽しむ。