自由な碁・自在な碁

                                                   高野圭介


自由奔放

変幻自在


 
名人上手の棋譜を並べていると、

自由奔放想で、変幻自在に満ち溢れてい
るのに気がつく。
 
何かの糸に操られているかのごとく、隅も辺もない、もちろん上下もない、
石が意志を持って動いているようにさえ感じるではないか。

碁の自由とは自由気ままに打つというのではなく、技が自在に使えるということと思う。

結城の10秒碁  
結城聡NHKチャンピオンはよく10秒碁を打つ
白黒共に打ったら、すぐ10秒の秒読みが始まっている。そりゃ忙しい。

きっと、ヨミと感覚の訓練なのだろう。つまり、碁の道筋を考えている時間もなく、
感性に従い石が勝手に筋に沿うて動いていくといった碁である。

技が自由に、勝手に跳んで出てくるのだ。

ヨミと感覚  
過日の近畿医師会碁会の決勝戦で、
きわどい持碁一の碁を制したとき、相手の松井祥治先生は述懐された。

「高野さんの着手は早い。私はヨムのに時間がかかる。その分だけ自分は弱い。」と。

自由と自在  
ところで、自由と自在には若干のニュアンスの違いがある。
 
自由な碁とは思ったまま自由奔放に打つ。
開放感があって闘争が付きまとい、戦い続ける宿命に陥るかも知れない。

自在な碁とは自由に打つが、白黒棲み分けるというか、変幻の中に共存している。

自由が一番  
さて、「碁は自由が良い。自由が一番」というとき、とらえ方が又いろいろである。

1.思ったように打つ。地とか模様にもこだわらず、
攻めたければ攻めるがよろしく、死ぬときは死ぬるがよろしく・・・・・と。

2.自由置き碁のように初めから置き石を勝手気ままに置く。着眼も棋風自由に表現する。

3.碁吉会のように、神出鬼没、参加したい棋戦だけ参加できる。打ちたい人とだけ打てる。

そういった自由さ。

自在の坐照   
自在の極は
「坐照」かも知れない。

坐照は黙って坐すればすべてが分かるという、神の坐す。ほとけの坐す。
囲碁では八段の別称となっている。ちなみに九段は入神。

一口に碁の自由自在といっても、それを求めるのは困難の道で、
こだわれば、それはそれでなかなか不自由なものである。