碁の神様考



                                                  高野圭介


碁の神様




碁は神様の創造になるとも言われる程、玄玄・深奥で、囲碁哲学の、
根源を司る棋理なるもの、学べども探れども一向に掴みきれず、
一生手探り、暗中模索の暗雲に包まれっぱなしである。 もはや
碁の佳手妙手を神の手と評され、碁の神は神出鬼没である。

「碁の神様・神」は「全知全能」「完全知」という意味であろう。
神を相手に勝つことは不可能である(負けないことは可能)。
神と神が碁を打てば、「引き分け」になる。

(碁の神の中でも下っ端とトップ神の間では2子くらい差があるらしい。)
注:アマ一言居士


その点、人間の碁は、無知、愚かさを前提にするから、碁は勝負になる。
そこが、又面白いところ・・・・虜になる。

呉 清源


碁の神様を語るとき、呉清源抜きにしては語れない。

20世紀最強の「囲碁の神様」と呼ばれ、中国では碁を知らない人でも彼の名を知らぬ者はいない。
囲碁に対する情熱と探求心はまさに「碁聖厳」といった感じです。

呉清源にとって、囲碁はまさに人生そのものであり、碁の魅力の虜になった天才という感がある。

囲碁と宗教に支えられた人生観が、
「碁は神が創造したとしか考えられない」という囲碁観を生んだのであろう。


呉清源の言葉




呉清源が面白いことを言っている。

盤上の複数個の石の集団には、一個の石にはない協同性という力が生まれる。 

神様と首を賭けて打つのだったら、5子置いても打てないだろう。 


神様と碁を打つと10手くらいで負けてしまう。


勿論先番で打つのだが、先は4目半有利(昔のプロの碁はコミ4目半)。
しかし神様は1手について半目くらいよい手を打つにちがいない。
すると9手目を神様が打つとこちらの先番の利はなくなり、10手目にはもはや半目の負けになる。

碁は白黒両者が調和を保って最善手を打てば、先に打った方が盤面で必ず残る。
だから碁は勝負と言うより自然現象(一般的には数学の世界と表現した方が分かりやすい)だと思う。

碁の勝負は他の勝負とちょっと違うと思う。
そこには人為的なものが少なく、殆ど自然現象(数学)と言うべきで、
それを勝負と名付けただけだと思う。

藤沢秀行


藤沢秀行の言葉は有名である。

「碁の神様がわかっているのが100だとしたら、
私にわかっているのは、せいぜい5か6か、あるいはもっと下です」

 碁の神様
神様という別称のつく棋士二人
「詰碁の神様 前田陳爾」  「囲碁の神様 杉内雅男」


ヒカルの碁にも「佐為」という神様は出てくる。

 江崎誠致


作家の江崎誠致「弱くても、碁は分かる」と言っていた。

「分かる」というのは「本質を見抜き、興趣を感じる」というような意味で使われており、
「弱い人」が必ずしも「分からない人」ではないと言うのである。

 
アマ一言居士

の戯言


神は最善手は打ってこないからな。

人間の盲点になりやすい絶妙手を10回連続で打たれたら正しく負ける、というな手を打ってくると思う。
当然、その絶妙手は今まで誰も見たこともない新手筋。


神様同士が対決した場合、戦いは起きない。
その石が死ぬ場合、死ぬことがわかってる石を大きくしない。
生きることがわかってる場合、攻められて大きくされることはあるが、
それは神様たちにとっては戦いではなくただの先手ヨセ。


大きなコウは発生するかもしれない。攻めて大きくした石の行き着く先がコウの場合。
もちろん神様たちはどの大きさのコウダテで決着するかも最初から読んでいて、
それを知ったうえで大石を攻めて(攻められて)いる。