自己否定を考える

                                                          高野圭介

自己否定は必要?
過日、自民党が野党の問責に荷担した。
「これだけは無い」と私は思っていたし、ジャーナリズムも「自己否定行為」とした論評を加えた。

私は、人間・人格も法人格も、生きていく上に、果たして「自己否定は悪」とは言い切れない。
それどころか、「自己否定は必要なのだ」と、考えてみた。

 囲碁研鑽の自己否定


私は自分の囲碁研鑽の手段として、
勢力から打ち、一定の段階で、逆に地について打ち、
なまくら四つで打てるようにこれを繰り返してきた。

まさしく自己否定の上に立った試練の中に生きてきた訳だ。

否定も肯定も同質   
因みに、武宮正樹九段は中から打って、宇宙流と呼ばれる。
一方、小林光一九段は辺や隅から打って、地下鉄と呼ばれる。

面白いことに、このま逆さまな棋風であるにかかわらず、
苑田勇一九段は喝破する。曰く・・・
「この全く相反する棋風だが、2人は同じことをやっているのだ」と。

達人は、上段の構えでも、下段の構えでも、正眼も、すべて同質なのだ。
否定も肯定も同質 とは・・・何と!


自己否定論  

 賢者には卓越した自己否定論がある。 

自己否定の
必要性
 
「自己否定の苦しみ」は、実は「人類の発展の原動力」であると、
私は考えています。

「だめな自分を何とかしなければならない!」と、悩み苦しむのは、
人間として成長し、進歩しようとする意志の現れだからです。

人間だけの
自己否定 

人間以外の動物には、「自己否定の苦しみ」など存在しません。

食べ物が十分にあり、怪我や病気もなく、外敵の危険が無ければ、
安心して寝そべっているだけです。

進歩と発展
人間だけが、生命を維持するのに何の支障がない状態でも、
色々と考え、悩み苦しむのです。その「苦悩する能力」のお陰で、
人類は他の動物には及びもつかない進歩と発展が実現できたのだと、
私は思うのです。

 自己の開放  
自己否定に向けていた精神的なエネルギーを、
自己肯定の原動力として使うことが可能なのです!

自己否定による「精神的エネルギーの鬱積」と「自己抑圧」の悪循環を断ち切り、
そのエネルギーを「自己の開放」に向けることが可能なのです。


問責の正当化  
これは自己否定を肯定するほんの一つの論ですが、かといって、



社会的に認知された自民党の絶対的なと思われる、主張を自己否定するような
「問責の正当化」というには、やはり問題が多すぎるかも。

矛盾の統一体   
本来、生きるということは、生きているから生きているなどと、
正当化されるようなきれい事では無くて、刻々と生きながら、死にながら、生きているんです。

悪があるから善があるというような「一切の存在は矛盾の統一によってつながる」という
「矛盾の統一体」つまり「弁証法的矛盾の統一体」ではなかろうか。

肯定が則
否定される 


 
いよいよ囲碁こそ自己否定の産物であり、
囲碁哲学とは「二律背反の弁証法的矛盾の統一体そのもの」と把握できる。


囲碁は肯定が則否定される深淵なる玄妙で、滅多と正体を表さない。
だからこそ、囲碁が万人の心を掴むじつに面白いものなのであろう。