自己否定を考える 高野圭介 |
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自己否定は必要? | 過日、自民党が野党の問責に荷担した。 「これだけは無い」と私は思っていたし、ジャーナリズムも「自己否定行為」とした論評を加えた。 私は、人間・人格も法人格も、生きていく上に、果たして「自己否定は悪」とは言い切れない。 それどころか、「自己否定は必要なのだ」と、考えてみた。 |
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囲碁研鑽の自己否定 | 私は自分の囲碁研鑽の手段として、 勢力から打ち、一定の段階で、逆に地について打ち、 なまくら四つで打てるようにこれを繰り返してきた。 まさしく自己否定の上に立った試練の中に生きてきた訳だ。 |
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否定も肯定も同質 | 因みに、武宮正樹九段は中から打って、宇宙流と呼ばれる。 一方、小林光一九段は辺や隅から打って、地下鉄と呼ばれる。 面白いことに、このま逆さまな棋風であるにかかわらず、 苑田勇一九段は喝破する。曰く・・・ 「この全く相反する棋風だが、2人は同じことをやっているのだ」と。 達人は、上段の構えでも、下段の構えでも、正眼も、すべて同質なのだ。 否定も肯定も同質 とは・・・何と! |
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自己否定論 |
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問責の正当化 | これは自己否定を肯定するほんの一つの論ですが、かといって、 社会的に認知された自民党の絶対的なと思われる、主張を自己否定するような 「問責の正当化」というには、やはり問題が多すぎるかも。 |
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矛盾の統一体 | 本来、生きるということは、生きているから生きているなどと、 正当化されるようなきれい事では無くて、刻々と生きながら、死にながら、生きているんです。 悪があるから善があるというような「一切の存在は矛盾の統一によってつながる」という 「矛盾の統一体」つまり「弁証法的矛盾の統一体」ではなかろうか。 |
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肯定が則 否定される |
いよいよ囲碁こそ自己否定の産物であり、 囲碁哲学とは「二律背反の弁証法的矛盾の統一体そのもの」と把握できる。 囲碁は肯定が則否定される深淵なる玄妙で、滅多と正体を表さない。 だからこそ、囲碁が万人の心を掴むじつに面白いものなのであろう。 |