自由な、気ままな、自由自在

                                 高野圭介

碁吉会の自由 
碁吉会はまず第一に自由を謳い挙げている。曰く

「我々はそれぞれの囲碁観を持っており、それは侵されない」
と。
 これは一口に言って「束縛されないこと」ともいえる。

 確かに、参加状態(早退、部分出席)も自由である。
参加していても、碁を打とうと、風呂に行こうと気ままでよい。
束縛されない。ただ、愉快な碁、楽しい碁にするためには、
悪い結果を生む勝手は避けた方が良いだけである。

 
碁キチ憲章 
 1990年3月24日

 1
我々は碁キチである
 2
 我々は囲碁を愛好し、棋カの向上に努める
 3  
我々はそれぞれ囲碁観を持っており、それは侵されない
 4  
我々は囲碁の普及に微力を尽くす
 5  
我々は囲碁を通じて人生の歓びをを分かちあう

 自由とは
そもそも自由とは、自分の心のままに行動できる状態をいうので、
自由は他者の強制、拘束、支配などを受けないで、
自己自身の本性や意志に従って行為することとして捉えることができる。

一面、自律的な判断を自由と言うこともある。
環境の如何を問わず、自発的な言動をいう。
ただ、自由は人類の最高のものとはいえ、問題がない訳でもない。
フランス革命の「自由・友愛・平等」を絶対の根本論理と謳い挙げても、
自由と平等は相容れないとも言われている。
 

 

碁の自由


ここに、碁の自由とは発想の自由ではないかと思う。
元来石の動きには棋理というルールが全局を支配している。

しかし、囲碁の歴史数百年の間に、ルールを超えたしきたりというか、
不文律というか、
「ここはこうするもんだ」という慣わしのようなものが生まれ、
形式的なものが根付いてきたものも少なくはない。

それは第1手を右上隅の小目から打てとか、三三は鬼門とか言われたり、
取らず3目など実戦解決でなく、裁定などに縛られたりしている。

ともあれ、どこへ打っても勝手も自由の一つである。
ただし、良い碁を打って勝つためにという条件が付いたら、
自由にも制限が生じてくる。



 内外のバランス

としての自由自在


自由についての達人・但馬守宗矩の卓論が眼に入った。

自由とは勝手気ままな状態で無く、
技が自由自在に使いこなせる状態のこと。

新陰流・但馬守宗矩は稽古を積み、頭で考えなくても、
身体がしっかりと確実に動く状態を自由と言っている。

先ずは内側に向かって集中して志を練り、
そのエネルギーが溢れて気となって外に発する。
この内への意識と外への意識がバランスよく保たれているのが

集中している状態だ。

内の構えの充実を待たず、気が発し過ぎたればつまずくなり。

「兵法家伝書」(殺人刀・上)より

 井山専用・想像力

 
プロ棋士は一般的に、棋理を自由自在に操っている。

しかし、
井山裕太プロには芸術に近い「想像力」があって、
想像力が要求される場面になると、不思議なことに、
井山専用・想像力碁盤が現れ、盤面を自由に駆使する
強烈な発想がマグマのように噴き出してくる!

奔馬宙を走るが如き自由奔放感に
彼の未来は想像も出来ない。


趙治勲の言葉  文藝春秋 2014年1月号記載