盤踞した碁吉会以前

                                                                          高野圭介




アンコールワットの壁画


碁吉会以前の足跡
(1)



エクセーヌの
碁盤


1985年、私が橋本宇太郎先生のお話をヒントに、エクセーヌの碁盤を
東レと共同特許を取ったことなどがきっかけで、
東レ鰍フ囲碁部の方と親交が生まれた。

担当者の藤田勲、囲碁部長の中島惇様は
今なお記憶に新たな方である。


「碁吉会」の
趨り


和歌山県紀の川市・竹内聰さまから、
1985年10月12.13日の両日催された、
東レ・エクセーヌ碁会の模様が寄せられました。

この碁会以降5年経って、碁吉憲章が謳い上げられたのです。
したがって、この日が現在の「碁吉会」発足の趨りであったのでしょう。


竹内資料



東レ・エクセーヌ碁会

                       竹内 聰

「集合写真は13日に、東レ・瀬田川ォの庭前で、
瀬田の唐橋を背景にして撮影したもので、
東レ・藤田勲氏からお送りいただいたものです。



少年の日の結城聡九段や大川尚子さま、風呂本富雄さまらの
懐かしいお顔が見られます。」




東レの
新年碁会



東レの瀬田寮で一泊の東レの新年碁会が催され、
その時結城聡先生を招聘してご指導を受けた。


結城と坂井


そのとき聡先生父君敏郎さまも来られたし、特筆すべきは
聡先生の親友、坂井秀至プロのお父君孝至さまも参加されていた記憶がある。

と言うのも、同じ参加者の中に、当時神戸市江口汽船の江口武雄さまがおられて、
お父君からすでに ご子息秀至さまの将来を医学か碁かの択一か両立か
など話しておられたと言われていたから。

竹内資料

第二回
東レ大会



第二回大会は1986年1月31日・2月1日の両日同様に催されました。

                             竹内 聰

当日の案内状に紹介されている、結城プロのプロフィールは
「現在中学2年生で、日本では趙治勲に次ぐ、
若年新記録を更新中でして、
1985年9月に、三段に昇段されたばかりです。」と。


(注)

2003年5月30日に、
結城先生の祝賀会ばが催された。

結城 聡九段 第25期 鶴聖戦 優勝祝賀会



名簿には「結城聡三段、結城敏郎5段(聡九段のご尊父)、
坂井孝至4段(坂井秀至七段の御尊父)、江口武雄4段」の名があり、
また「井原嗣治、南 孝治、北岡 修、宮西孝司、他30数名」の参加者で
大いに賑わっている。




写真 手前左側は結城敏郎さまで、竹内聰さまは中央奥の方です。
碁石袋の紫色が鮮やかですね。エクセーヌの碁盤の黄色い色も。」



岡山県日生は頭島の「碁キチ大集合!」(2)


碁キチ
大集合!


1986年4月12日〜13日(土・日)碁吉会はこれが機縁で、岡山県日生の沖、
頭島は橋本荘で「碁キチ大集合!」と銘打って碁会を催した。

頭島に行く舟の中に誘導するとき、誰かが「碁吉の皆さ〜ん」と
叫んでいたのが今なお耳の底に残っている。

参加者23名
参加者は東レの方も見えて、総勢23名。遠くは和歌山の竹内総さま、
現在住 岡山(当時兵庫県女流名人・伊丹市)の佐野久仁子さまも見えたが、
今の碁吉会では井原嗣治さまの名前が見える。


すでに
亡き友


この頭島にご参会された方々で、すでに無き数に入られた方も少なくない。
中川敬三・片山慶治・助友勝・栃尾右衛門・鶴田萌子、藤原繁治郎の各氏らである。


赤穂岬の
貴和荘


 その後、播州赤穂岬の貴和荘で毎年のように碁会をもった。

1990年の碁吉憲章の制定となり、今の碁吉会と繋がっている。




碁吉会開幕前夜 (3)

                                                             高野圭介

木原メモ
 いま、「碁キチの自己紹介」というプリントが手元に残っている。木原文太
左右衛門さんの筆になるもので、「平成2年3月24.25日、
山崎町{みつわ別館}で挙行された
第1回碁キチ大集合でのスピーチである。
「私の隣にいた酒豪・大西康司さんが、どんどん酒を注がれたので、
メモ内容極めて不明瞭につき、乞うご容赦」とある。

参加者
当日の参加者は稲用博史・井原嗣治・大西康司・奥喜代孝・尾崎正一・
木原文太左右衛門・高野圭介・後藤文麿・竹内総・田中正則・栃尾衛文・
永山隆・本庄三男・三木正・宮西孝次・森本一二の16名であった。

高邁な思想
 このメンバーで、一夜かかって練り上げたのが「碁吉憲章」である。
高邁な思想はさることながら、当時禁煙を決定したのは勇断だった。
 他に、尾崎正一先生が
「静粛に打つのはいいけれど、面白いことを
言うてもよろしいんでっしゃろな」
と笑いを誘う会話もあった。




碁キチ山崎に会す (4)

                                                            森本一二

 1990年
 ともあれ、碁吉憲章をもって碁吉会の片目も開いた。
 以下、森本一二先生の筆に譲る。

 1990年3月24日、碁キチと自称する人々が山崎町みつわ別館に集まってきた。


「碁きち会」の
発会式


この会は「碁きち会」の発会式で、会員の親睦と
憲章づくりがメインであるので、盤上に心を残しながら別室に集う。

高野圭介氏が世話人として歓迎の挨拶をし、続いて自己紹介に入る。
下関の大学教授、和歌山のお医者さん、横浜の大会社のお偉いさん、
日本民謡の先生、囲碁ジャーナリズムライター、そして今は昔、
安保闘争華やかなりし頃の高名の全学連闘士などなど、
実に多士済々、幅の広くて深みのある人たちである。

碁キチの神髄
これらの人たちが
碁キチの神髄を追求し、謳いあげた。




碁キチ憲章

1990年3月24日


我々は碁キチである


我々は囲碁を愛好し、棋カの向上に努める



我々はそれぞれ囲碁観を持っており、それは侵されない


我々は囲碁の普及に微力を尽くす


我々は囲碁を通じて人生の歓びをを分かちあう





東レから5年経って、いよいよ 碁吉会発足(5)

碁・碁・碁

食事の間も碁のことを思い出して、独り言を言ったりするほどだから、
食事も適当に切り上げて打ち碁再会。

碁盤の墓
明けて10時頃から寺町と十二ン波河原の碁盤の墓を見に行く。
碑文は年降り明らかでないところもあるが、
これを解読した『宍粟の碁』の文献を片手に読み入る。
櫻の蕾はふくらんではいるが、
川面をわたる風はまだ膚に寒い墓地にあって、
明治、大正、そして昭和初期の山崎の碁に接し、感慨一入であった。
昼は散会を惜しみ、ダ・ビンチに席を取る。

ゴキチカイ
注:後に「碁キチ会」が「碁きち会」に、また今は「碁吉会」となった。