橋本宇太郎先生と「今一輪」

                                             高野圭介


「今一輪」という三木良一追想集(1992年刊)がある。

ある日、橋本宇太郎総帥から直接電話を戴いた。
「三木良一さんが他界された。故人を偲んで追想集が上梓されることになった。
高野さんに一文書いてほしいので、私のところに送って下さい。」

その後、「今一輪」が上梓されたというのは耳に入ってきたが、見ることは無かった。
その内に、宇太郎先生も他界され、そのままになってしまった。

やがて、私が宇太郎先生の代筆をしたのでは? という思が募ってきた。
過日、神戸新聞社に問い合わせたところ、すぐ返事があった。
「橋本宇太郎先生の一文は確かにあります。もう二十数年前のこととて
余分のものがありませんので、そのページのコピーだけでも送ります」

それが以下です。





本文は私の原稿がベースになって、殆どはそのままですが、キチッと編集されています。

今となっては、私の名前の一文というよりも、宇太郎先生が高野を信頼しておられたことに
光栄の至りをひしひしと感じております。と同時に、もう少しでも文才があったらと顧みて、
もっと流麗に、しかも中身のあることが書けなかったか、と申し訳なく忸怩たる思いです。


思えば、宇太郎先生にはさまざまな思い出があります。

先生肝煎りの「関西棋院普及功労賞第一号」を贈られたり、
長男・雅永の結婚披露宴にはご夫妻で参加の栄を賜ったり、
私の貴重な作品「東レエクセーヌの碁盤」を作ったりもしました。

そんな眼に見えることもですが、心に残る薫陶は計り知れないものがあります。




「碁スケッチU」高野圭介著1994年p.7より


 
下部のエッセイは12年前に認めたもので、一つ一つが過去のものとして飛び去っていく。
懐古の回顧というその姿に、懐かしいとはこのことかな?と、ほのかなノスタルジアを覚えています。

読み返していますと、その折々のシーンがありありと再現されるのに驚いています。




「ありゃ、違った!隣へ打った」


 四半世紀前・日中平和友好条約締結の中国で

  2003年8月12日    高野圭介




「業余囲棋団的比賽紀行


神戸で壮行会
1978年のこと、神戸新聞創刊80周年記念と
デイリースポーツ創刊30周年を記念して、
兵庫県から日中アマ囲碁友好使節団が中国を訪問した。

神戸で壮行会が催されたが、私は「切り賃」のことを聞いた。
その説明をされたのが家田隆二先生で、最初の出会いとなった。
帰国してから「業余囲棋団的比賽紀行」として、メモを纏めた。

 日中平和友好条約
1978年8月12日は、新しい日中間の友好親善のための
日中平和友好条約が調印されたその日に当たった。

空港では聶衛平、王汝南、華以剛、陳嘉鋭らの出迎えを受けて
北京空港に降り立ったのである。

 朋友・唐 騰
その後2週間、来る日も来る日も友好万歳に酔うて、大歓待!

人民大会堂で、方毅副主席に宮廷料理に招かれたり、
西湖湖畔では今をときめく孔祥明の「荒城の月」を聴いた。
また、今ではかけがいの無い朋友・唐騰さんと北京で交友が始まり、
李戸さん、史衛忠さんは天津での出会いがあった。

団長・三木良一 
団長・三木良一(神戸新聞社当時専務・後の社長)と、
他に神戸新聞社からは中平邦彦、安福幹夫の両氏。
また関西棋院からは最高顧問・橋本宇太郎ご夫妻、水田羨博、
東野弘昭、本田満彦の四棋士。そしてアマ14名が随行した。
総員22名の2週間に亘る異国囲碁行脚となったのであるが、
この豪華な碁の旅に、私も貴重な体験を得た。

温故知新
はや、まるまる25年が経過し、世相も移り変わり、
棋壇も次のジェネレーションに移行してしまった。
同行者の中にはすでに四名の方々が他界され、
仲間と会えば温故知新、まさに今昔の感がある。



 「ありゃ、違った!隣へ打った」


審判官と記録係
国際大会とあっては、日中の国旗を結んで立ててあって、
審判官と記録係と茶菓子の付いた対局席でのこと、
私は第一着を右上三三に打ち、そして当時流行の第三着を
右下向かい小目に占めて、得意の布陣だった。

ところがである。

何か不吉な予感がしてよく見れば、星にあるではないか。
「うーーん、ちと勝手が違う」と、動揺したが、仕方ない。
そしてこの碁を失った。

 瀬越先生
この話を宇太郎先生に話したら、

「今から50年前のことです。私が呉清源さんと初めて打ったとき、
私も高野さんと同じことをやりましてね。
そして第三着は瀬越先生と一緒でして、瀬越先生の場合は
目外しに小ケイマにかかったところ、スミから受けられまして、おかしいな?
とよく見れば、高目に小ケイマにカカっていたわけでして・・」と。

 ほほっと笑われました。



 ”フン目”のこと



奥さま
(鈴子夫人のこと)


北京・天津と二敗し、本田満彦六段(当時)と同じく、少々参っていた。

「奥さん(鈴子夫人のこと)、明日は大切なので、ちょっとサインを
送ってもらえないでしょうか? 一間トビはこう。コスミはこうと。」

「分かりました。高野さん。でも、もし、痒くなって、
違う手の動きになったら・・どうしましょう」

「それは困りましたな、どうしましょう」


宇太郎先生

 

そこで宇太郎先生曰く
「それは名案ですよ。家内は皆さんよりは少し強いですから、
よく頼んでおきなさい。

実は”フン目”というのがあって、プロの中でも
”フン”というだけで、フン目違うと言われています。
アマの方はそれくらいしないとねぇ。」



「あほらしゅうて・あほらしゅうて」


破顔の三木団長
上海で公式手合いが済んで、三木良一団長は破顔される。
「あほらしゅうて・あほらしゅうて、かなわんな。
今まで北京・天津・杭州と一勝一敗一持碁で来まして、
もう 気楽に打っていました。」 途中

「棋勢がおかしくなって、もう投げよう、次に投げようと思っても、
いつの間にか、また好転していて、いけるぞ・・と悦び、
打ち継いでいたら、またおかしゅうなっていて、
終いにダメまで打ってしまって、作ってみたら、
ナナナ・・なんと持碁。もうあほらしゅうて、

私のザル碁がよう遊ばれているみたいなもんで・・・
結果は一勝一敗二持碁でっせ。」

聞けば、相手は 邱 百瑞 といい、
囲碁学校の校長先生だった。