もう懲りた・・・ボウクリ会

                                            高野圭介

瀬戸内寂聴
NHKのTVから瀬戸内寂聴の笑顔と歯に衣を着せず、
ズケズケと死について語りかける穏やかな声が流れてきた。

「南無阿弥陀仏」と「もう懲りた」が仏教の教えであるというのである。
「もう懲りた」は「忘己利他」と書くとも。



ボウクり会
忘己利他 を読んでみて、「ボウクリ」と読めるではないか!


ご存じ、年末のボウクリ会は碁吉会の恒例のイベントで、
カタカナで「ボウクリ」と書いたり、横文字で「Bouxri」にしたりしていましたが、
まさか「忘己利他」が正真正銘のボウクリとは知らなんだ。


忘己利他
さて、忘己利他ですが、仏教の最澄さんが説いた説話の中にあるそうです。

「人間の性として、私たちはどうしても自分中心に考えてしまうことがあります。
我欲が先立つのです。つまり我欲が先に立つような生活からは
幸せは生まれないのだということです。

 マザー・テレサ  
「インドの母」 と言われた故マザー・テレサさんの話です。

 
ある日、七人の子供をかかえる貧しい母のところへ、
マザーは両手にいっぱいほどのお米を持っていってあげたのでした。

するとその母親はそのお米の半分を手にして外へ出ていきました。
マザーが問うと、隣りにも同じような貧しい親子がいるので、
そのお米を分けてきたのだと言うのでした。

一俵もあるお米ではありません。
自分の子供たちの一食分にも足りないお米でさえ、
それを半分にして、隣りの子供たちも喜ぶだろうと分けてやれる
崇高な精神にマザーも感動したと言います。

 捨身飼虎
「捨身飼虎」のこと。

 釈迦が前世に飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食わせ、
虎の母子(生後間もない子は7頭も)を救う話です。

飢えた虎たちは釈迦の捨て身の善意を前にして彼を食べることができなかったが、
彼は自ら首を突いて出血して、虎たちが彼を食べるきっかけを与えたそうです。

妙好人
日本には数々の妙好人が居ます。

妙好人とは浄土宗、特に浄土真宗に見られる市井の人で、
阿弥陀仏の本願に目覚め、救われた人を言います。

煩悩の世に咲いた蓮の花のように心が美しく好ましい人の意。

妙好人とされる主な人物

赤尾の道宗(?-1516年
因幡の源左(足利喜三郎、1842年-1930年
石見の才市(浅原才市、1851年-1932年
有福の善太郎
1782年-1856年
讃岐の庄松1799年-1871年
六連島のお軽
1801年-1857年

その一人、稲葉の源佐のこと
ある日、突然の雨にあって帰り、住職に「えらいめにあったのお」と言われて、
鼻が下に向いて付いているでありがたい」と言ったと言う。
彼の口癖は「ようこそようこそ さてもさても」というものであったという。
その意味は、この私をたすけるとよくぞ誓ってくださった、
さてもありがたい、というほどのもの。