IGO MEMORIES・・・・嗚呼、我が囲碁人生
月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 高野圭介 |
||
囲碁の知り初め | 振り返って、碁と付き合った私の足跡を辿ってみよう。 1931年生まれの私は終戦時中学2年だった。荒廃した社会と心。 することも無い中、最初に取り組んだのが百人一首と囲碁だった。 スポーツは軟式テニスが友となった。 それから70年後の私の日課の中に巣くうてしまっている。 つまり、毎日の囲碁。毎日のプール。週二回の硬式テニス。 週一回のゴルフ。その原点が終戦時に芽生えていたわけだ。 |
|
田舎の碁会 | 大正から昭和初期に掛けて朔望会があった。 戦後には山崎町有段者会というのが生まれた。 1951年、神戸商大時代、囲碁部と硬式テニス部を立ち上げた。 このときから、将棋、麻雀は縁が遠くなった。 1967年、尾立源二創設の楠風会を発展的解消して守拙会にタッチ、 守拙会は今なお、大いに活躍している。 |
|
囲碁界に顔見せ | 1971年10月に多田昭円という円休寺のお坊さんに出逢った。 多田さんに3子局まで打ち込まれ、一念発起、ひと冬碁に取り組んだ。 半年の後2子ぐらい棋力も上がり、多田さんと握りになっていた。 1972年春神戸新聞名人戦Aクラスに初出場、幸運にも優勝してしまった。 晴れの県中央大会に顔見せ出来た。 その大会で、宇太郎先生に初めてお眼に掛かったのである。 |
|
囲碁活動 | 1973年、関西棋院宍粟支部設立に際して、当時、 西播磨名人であった故か、突如として支部長に推挙された。 1978年、女性の囲碁のための風鈴会を設立。 風鈴会は連綿と続き、回り回って、 現在は神戸市須磨で囲碁研鑽に寄与している。 1979年、玄游会を渡辺博一氏らと創設。 1980年代に、中国縦貫道八市町対抗戦及び、 西播磨八市町対抗戦を立ち上げて地域交流を盛り上げていった。 |
|
1980年の兵庫県囲碁番付表。概ね正確のようだが、隠れた棋士はもっと居たように思う。 kei 下、左が無いが懐かしい記事だ。 、手ほどきをしたのは多田昭円さんでした。 kei |
||
碁吉会と 須磨の碁会 |
1983年、関西棋院宍粟支部十周年記念行事開催。 1990年に碁吉会を創立。 2015年に25周年記念碁会を催したばかりである。
1990年代、名古屋での全日本学生OBOG東西対抗戦、 東京での世界ペア碁大会などに参加。 ねんりんピック囲碁大会に、兵庫県代表として花巻大会、 神戸市代表として米子大会に参加した。 この間、大阪刻の陣、泉の会と長らく続いた。また、 家田隆二先生の指導碁、ポニョの会、風鈴会と併走していった。 2016年に須磨ヘラクレスクラブ創立と共に、hera碁を設けた。 碁吉会の根拠地も合流し、月例会を催すことになった次第である。 したがって、ただ今は、風鈴会、若愚会、初心会の花盛りである。 |