世阿弥 「離見の見」と「我見」

                                                        高野圭介

「花 鏡」
世阿弥「花鏡」にいう、

「また舞に、目前心後といふことあり。
目を前に見て、心を後ろに置け」となり。
見所より見る所の風姿は、我が離見なり。
しかればわが眼の見るところは、我見なり。
離見の見にはあらず。
離見の見にて見るところは、すなはち見所同心の見なり。

その時は、我が姿を見得するなり。
後ろ姿を覚えねば、姿の俗なるところをわきまえず。
さるほどに離見の見にて見所同見となりて、
不及目(ふぎょうもく)の身所まで見智して、
五体相応の幽姿をなすべし。
これすなわち、「心を後ろに置く」にてあらずや。」


この言葉の解釈

「花鏡の中で『観客の見る役者の演技は、
離見(客観的に見られた自分の姿)である。

「離見の見」、すなわち離見を自分自身で見ることが必要であり、
自分の見る目が観客の見る目と一致することが重要である』と、
世阿弥は述べている。」

「ヨ ミ」
碁で言えば「勝手ヨミをするな」と言うことである。

「誰がどこから見ても感じるところを、局部から大局から、
変化の数々をしっかりヨンで、予測の結果を分析して、着手しなさい。」
「その時、
自分に都合のよいことばかりではなく・・・」が付くのです。

 
ここで、「ヨミ」について言及しよう。
「ヨミ」とは「手をヨム」=「手段を考える」「先をヨム」。
・・・『囲碁百科辞典』林裕著より・・・

術語に
「ヨミ込む」「ヨミの入った手」「ヨミキリ」
「ヨミキル」「ヨミ違い」「ヨミ筋」などど言う。


2010年、張羽は山下を破って、棋聖となって、七冠となった。
新聞には
「正確なヨミ」が武器だったように書いている。



「しっかりヨム」ということは、林海峰の「石橋を叩いても渡らない」というもので
、慎重な上に慎重なのです。

私たちアマの、
考えなしの直感だけに頼って、ええ加減にひょいと打つ、というのと逆です。

「ヨミかけたら、順番に消えていって、ヨメへん」
と言います。
「ヨム・・なんて、邪魔くさい」
という人の多いことよ!