「失敗学」を考える

                                                 高野圭介

 ナデシコ・ジャパン
ナデシコ・ジャパンが女子ワールドカップ優勝戦進出となった。
メダルを確定して、もう血湧き肉踊る!画面に釘付けである。


家内との会話。



「面白いなぁ」
「何が面白いんだろう?」
「そりゃ、勝つでや。・・・野球とどちらが面白い?」
「サッカー!」
「何で?」

     

「いつも全員がフル回転している。
常に双方にどんでん返しのチャンスがある。

四六時中勝ちと負けの狭間に居て、
急変する勝負の峰の緊迫感!」

 囲碁観発表会


 もう10年も前の頃、碁吉会は宴会の席で、
「囲碁観発表会」なる時間を持っていた。

「碁は面白いなぁ。勝っても負けても面白いなぁ」
「へー、負けても面白い?ホントかいなぁ?」
「そやそや、わしらは勝たんと全然おもろうないわ。」
「碁はなぁ、どっちかしか勝てへんでぇ。
負けておもろうなかったら、碁なんかぁ打てへん。」

このような問答が延々と続いたものである。

勝たにゃ気が済まん
中には「勝たにゃ気が済まん」という人がある。
彼は「負けたら腹が立つ」とも言う。これには相手も困る。

 勝とう勝とうとしたからといって勝てるものではない。
勝ち負けは常に同居している。

勝にこだわるということは気負いのために即負けに直結するかもね。
 つまり、思考が偏ってきて、何かと失敗を招く基になることがある。

失敗学


「失敗学」というのがある。

「失敗学」とは、過去の失敗に蓋をして覆い隠すのではなく、
あえて白日の下にさらすことで、同じ失敗を繰り返すことを防ぎ、
失敗の原因を研究することによって生まれる、
さらなる技術を創造すべきだ、とする学問の由。

 つまり、
失敗学とは、
起きてしまった失敗を活かすためのポジティブな学問というのだが、
「失敗は成功のもと」を学問にしたようなもののようである。

昔の名前
 とはいえ、幾ら聞いても一向に改まらないことが多い。
つまり、理解が足りなかったか?

失敗学がまったく身についていない。

再発防止の手立てを作ったつもりでも、
臆せず、昔の名前が出てくるのである。