中野孝次の生きざま

読書感

                              高野圭介

中野孝次  
 「足るを知る」ー自足して生きる喜び 中野孝次著を手にして、
二つのことが脳中を去来した。




一つは私の居間にあった「知足勝不祥」と墨書した掲額である。

もう一つは「中野杯」と言う棋戦のことである。

 U20中野杯創設   
たまたま重見健一邸に投宿していて、当の重見さんが
「あ、中野杯の中野さんだ」と言って、間違いない、と念を押された。
流石である。

 
碁を楽しむ章に「碁に魅せられて三十年、碁石を手にしない日はない。
碁のように熱中するに足るゲームのあることが、
人生にとって素晴らしいことだ」と結んでいるのも、さもありなんと思った。


 中野孝次さんの「U20中野杯創設」という碁界への大きな置き土産は

“清貧の人”が差し出された浄財であった。

 知足勝不祥
さて「知足勝不祥」は満足する心を持っていれば幸せに暮らせるという意味で、
弘法大師の座右の銘と言われる中国後漢の崔子玉作のようです。

以下、その言葉の抜粋に心を没入しよう。
 
 心を洗う
顧みて、どこを取ってみても、出来ていない自分を知るばかり。
聖人君子でないから、出来ない!とうそぶく勿れ。

嗚呼、心が洗われるばかりである。
 


 知足勝不祥

http://kambun.jp/iboku/ishikura-kosaburo.htm

 
無道人之短

人の短所をいう
ことなかれ



他人の短所や過失、
不得意なことを
いってはならない。 



 無説己之長

 己の長所を説くなかれ

自分の長所や手柄ばなしを
して自慢してはならない。 


施人慎勿念

人に施しては慎んで
おもうなかれ



 他人へ施与したり、
世話をしたことは
口に出さず、
いやしくもいつまでも
心の中に思うて
はならない。



 受施慎勿忘

施しを受けては
慎んで忘るなかれ



 他人より施与をうけたり、
世話になったことは
決して忘れて
はならない。


 世誉不足慕

世誉は慕うに足らず


世の中の名誉は、
之を慕い追いかけ
たりするものではなく 


 
唯仁為紀網

 ただ仁を国の
制度となす



世に対するには、
唯ひたすらに仁道
(おもいやり)を
もってするのがよい。

 
隠心而後動

 心にはかりて
のち動く


 

謗義庸何傷
 
そしり何ぞ傷まん
 

無使名過実

 名をして実に
過ぎしむるなかれ

 

 守愚聖所臧

 愚を守るは聖の臧する所なり
 

在涅貴不緇

 黒泥にあれども
黒まざるを貴ぶ



黒泥の中に在りて、
そのどろに汚れ
ないのが貴い。 


 
 曖曖内含光

 曖昧としてうつに
光を含め



ぼんやりとかすみ、
底光りがして見える
如き心を有せねば
ならない。

 

 柔弱生之徒

 柔弱は生の徒なり

 
  
老氏誡剛強
 
老氏は
剛強を戒む


 
 
行行鄙夫志

 行行たる鄙夫の志し


行行(剛強)たる鄙夫
(人格の低い人)の志し 


 
悠悠故難量

 悠々として故
(まこと)
に量り難し

 
 
慎言節飲食

言を慎み飲食を節し


言語をつつしみ、
飲食もほどほどにして
多くむさぼらず。 

 
知足勝不祥
 
足るを知りて
不祥に勝て


 
物事をかんがえて、
七、八分目に
とどめたならば、
災難や不幸に
かかることはない。

満足する心を
持っていれば
幸せに暮らせる。


行之苟有恒
 
 前に述べたことを
実行して、
かりそめにも忘れる
ことなく守り通すならば。



 久久自ら芬芳

 (すぐれた功績)
あらん



一生一代事跡は芳しく
(すぐれた功績)
名は後世にまで
及ぶであろう。