時に之を習う


                                                   高野圭介 

 碁吉会  
過日、中田良知先生に「碁吉会って、どんな会?」と、
伺ったことがある。

「そうですね。朋あり遠方より来たる・・そんな会ですね。」



主催者の自分には実感として湧いてこない話だった。

 景徳鎮

 
中国は景徳鎮での中外名士教授杯囲碁大会で、突然挨拶の指名があった。

私はふと、
遠方からはるばるやってきた日本人がすでに老朋友となっている
皆さまと同席する懐かしさがこみ上げてくるのをひしひし感じたので
親愛の言葉として「朋あり遠方より来たる」と、冒頭に申し上げた次第。




論語の冒頭(学而篇・第1章)に、
学びの目的として、謳い揚げられた。 



 
白文(原文)
 
子曰、

学而時習之、不亦説乎。

有朋自遠方来、不亦楽乎。

人不知而不チ、不亦君子乎

 書き下し文  
子(シ)曰(ノタマワ:イワ)く、

学びて之を時習(ジシュウ)す、亦た説(ヨロコ)ばしからず乎(ヤ)
朋有り、遠方より来る、亦た楽しからず乎
人知らずしてチ(ウラ)みず、また君子ならず乎

 
現代語訳
 
孔子が言われた

学んだことを、その時々の状況に合わせて思い出しては考える。
それはまた、何とも心うれしいことではないか。

学ぶことを通じて、遠くからも人がやってきて仲間を作ることができる。
これもまた、とても楽しく思えることではないか。

人が理解してくれないからといって、腐ったり落ち込んだりというように、感情的にならない。
そういう姿勢も、人間形成を目指すために学ぶ者の在り方だし、大切なことではないか。


 人の理解
人に理解して貰うということ。

だいたい自分をよく理解してくれている人はそう多くないだろうが、
自分を解ってくれる人は、自分も大好きだ。
OK understand !

もし、分かって貰えない時も、いつかは分かって貰えると確信して、
独自の道を進む。
 
時 習  
論語読みの論語知らずというのか、
時習の意義ですが、「時に之を習う」のは、時折では無く、
ちょうど良い時にの意味で、タイミング良く使おうと言うことらしい。




昨今、加齢の悲しさは物忘れに表れる。タイミング良く忘れて、出てこない。
そこまで来ているのに現れない。時不習である。

ともあれ、
万物即師と、常に会う人、去る人との一期一会の日々である。
今の自分には、時習の時は単なる good timing ではない。
常なる時 every timing も時習である。