調和の碁形を

                                                   高野圭介


文藝春秋
2004年3月号

 増版増版


ひさびさに待ち遠しい本があった。
文藝春秋2004年3月号である。

 芥川賞に青春の女性二人、と発表されて、
石原慎太郎の「太陽の季節」村上龍の「限りなく透明に近いブルー」
などが思い出されて、わくわくしていたのである。
若い女性の第130回芥川賞受賞作品
金原ひとみ、綿矢りさの「蛇にピアス」「蹴りたい背中」の二篇が
とても新鮮味があると思えたからだ。

 案の定、この思いは日本中を駆けめぐって、
文春も今月号だけは増版増版で大童であったと聞く。

塩野七生のコラム

「小よく大を制す」


いつものようにコラム欄から目を通した。
そこで私は「ローマ人の物語」で有名な塩野七生のコラム
「日本人へ・+送辞」の一節に私の眼は釘付けにされてしまった。


一級の武将は一級の外交官でなければならない。

戦場で駆使される戦略戦術とて同じこと。古代の有名な戦闘は、
アレキサンダー大王でも、ハンニバルでもスキピオでも、
また、ユリウス・カサエルの戦闘でも、
まったく一つの例外もなく、兵力が劣勢な方が勝った。

それは彼らが他の人々より柔軟な思考法をする人であったからだ。
 このように軍事とは、まったく政治と同じに、
各分野で求められる資質が総合的に発揮されてこそ、
良い結果につながるのです。(要約)


 

 置き石の威力
 さてこの話が、プロに幾つか置き石をしてもなかなか勝てない。
それは何か?を自問する入り口を開いてくれた。

戦う前の布石の段階で、置き石の力を削がれているのを知った。
更に戦いになってからも同じことが続く。
置き石の威力はどんどん削がれていく。

果たして、置き石の威力とは「一着の価値」論からすると、
余程でなければほとんど持続しているはずなのに不思議なことだ。

少年5級vs大人4段

互角の戦い

 
 
かって、世にも不思議なことが起きた。

 私の長男・雅永が中一のとき、5級で守拙会の皆さまと打っていた。

ある日、囲碁喫茶「太陽」の碁会に参加した。
5級で出て、決勝戦へ進出したのだが、その課程が面白い。



一回戦で阪神から帰郷されていた安保4級に先番で勝って、
その後決勝まで進んだのだが、決勝で当たったのがまた、その安保さん。

安保さんは
「この子は強いんや。他はすごく楽だったけど」
「あれ!ワシは4段やで。何で4級や?」
と言い出した。

つまり、
安保さんは8子の手合いだったのに、向こう先番で負けていたのである。
ただし雅永はその3年後、兵庫県の高校チャンピオンになったりしたが。

 

しばらくは碁会所ではこの話で持ちきりだった。

 置き石については、先方の力を知らなかったら、
余り意味のないものなのかも知れない。とりわけ子どもは邪気がないから。


文武両道で、

調和を求め、
戦術戦略を駆使


ひょっとしたら、プロの指導碁でも、プロの柔軟な思考にやられている。
せめて強烈なプロの先入観を振り払って、棋理と相対する必要がある。
またプロでなくとも、碁形の態勢づくりにはもっと腐心しなければと思う。

つまり、良き外交官で調和を求め、
良き武将で戦術戦略を駆使し戦う
総合戦を、という「送辞」であった。