囲碁はわたしの皮膜 高野圭介 私どもの人体は、じーとしているかぎり、温かい皮膜のようなものでつつまれている。 風が吹くと、その”皮膜”が吹き飛ばされる。だから涼しい。あるいは寒い。 狭義の文化は、右の”皮膜”に似ている。 さらに簡単に言えば、習慣・慣習のことである。 外から帰ってくると、ほっとする。家は、自分がつくりあげた自分だけの文化である。 胎児が子宮にいるように、さなぎがまゆにくるまれているように、心を落ちつかせる。 一民族やその社会で共有される文化を、仮に狭義の文化とする。 私どもが外国から日本に帰ってくるだけで、 釣られた魚がふたたび海にもどされたほどの安らぎを覚える。 「文化とは、それにくるまれて安らぐもの。あるいは楽しむもの」 cf:『風塵抄U』p.190.司馬遼太郎:中央公論社 先日、大阪城ホールでの「一万人の第九」のゲネプロの日、 朝のひとときを、司馬遼太郎記念館へ足を運んだ。 その時入手した本『風塵抄U』 副題:「日本に明日をつくるために」である。 ・・・21世紀への痛切な思いと愛をこめて「ひとびとの心」の在りようを訴える・・・ 私は「kono マイナス go イコール ゼロ」と言われることがある。 「ほんまにゼロかなぁ、もうちょっと何かあるじゃろぅ」 と、中身にはもっと他にあれこれと忙しいのに、 碁だけとは・・・ちょっと不服だった。 文化皮膜論・即・囲碁皮膜論に接したとき、 私は碁に生かされているとまでは言わないが、 私をくるんでいる文化、そうだ、私は碁にくるまれている 碁が自分の中に入り込んでいると思い込み、 中と外をはき違えていたのがよーく分かった。 碁吉会を共有している碁友はみんな 碁という皮膜に被われて、安らぎを覚えているのだ・・・ そうだ! 今となっては 私の生きざまの大半を占めている「碁吉会」は 私をくるまっている よーく納得した。 「碁は、それにくるまれて安らぐもの。あるいは楽しむもの」 |